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2020年7月11日 (土)

7月5日「神が味方」

では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。(ローマの信徒への手紙8章31~34節)
 
 厳しい状況におかれたとき、味方となってくれる人がいるかどうかで希望と絶望に大きく分かれます。パウロは、「もし神が味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」と記します。神が味方ならこんなに心強いことはないでしょう。では、「敵対」するのは誰を想定しているのでしょうか。
 33~34節には、わたしたちを「訴え」「罪に定める」者が想定されています。これは、わたしたちの罪を裁く神ご自身のことにほかなりません。ところが、その絶対的な裁き主が、わたしたちを訴え、裁くことをせず、無罪とすることを決め、そのためにキリストを遣わされたというのです。
 「神が味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」とは、本来ならわたしたちに相対してむかいあうはずの神が、なぜかわたしたちの側についてくださっている、という驚きと感動のことばです。わたしたちに敵対するはずの神なのに、というより、神に敵対していたわたしたちなのに、神はそのわたしたちに味方してくださったのです。
 そのために神はキリストを遣わし、その命を与えてくださいました。ここにそれが神の愛、キリストにおいてしめされた愛なのです(38~39節)
 背いたものを、それでも責め裁かずに愛し、味方になってくれる神は、主イエスが「放蕩息子のたとえ」で語られた父親の姿そのものです。ただし、このたとえでは、キリストのことは明確に示されていません。神が、背いたものをゆるすために、どれほどの痛みを負ったかを思わねばなりません。
 神は、わたしたちに大きな愛を示し、御子キリストという大きな犠牲をはらって、敵対するのではなく味方となり、わたしたちの側に、共に立ってくださいました。その愛を受け入れ、わたしたちも、神の味方として、神の側に立つと、心さだめましょう。

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