カテゴリー「説教要旨」の記事

2019年10月12日 (土)

9月6日「主のしるし」

主は彼に言われた。「わたしがあなたと共にいるから、あなたはミディアン人をあたかも一人の人を倒すように打ち倒すことができる。」彼は言った。「もし御目にかないますなら、あなたがわたしにお告げになるのだというしるしを見せてください。どうか、わたしが戻って来るまでここを離れないでください。供え物を持って来て、御前におささげしますから。」主は、「あなたが帰って来るまでここにいる」と言われた。ギデオンは行って、子山羊一匹、麦粉一エファの酵母を入れないパンを調え、肉を籠に、肉汁を壺に入れ、テレビンの木の下にいる方に差し出した。神の御使いは、「肉とパンを取ってこの岩の上に置き、肉汁を注ぎなさい」と言った。ギデオンはそのとおりにした。主の御使いは、手にしていた杖の先を差し伸べ、肉とパンに触れた。すると、岩から火が燃え上がり、肉とパンを焼き尽くした。主の御使いは消えていた。ギデオンは、この方が主の御使いであることを悟った。ギデオンは言った。「ああ、主なる神よ。わたしは、なんと顔と顔を合わせて主の御使いを見てしまいました。」主は彼に言われた。「安心せよ。恐れるな。あなたが死ぬことはない。」ギデオンはそこに主のための祭壇を築き、「平和の主」と名付けた。それは今日もなお、アビエゼルのオフラにあってそう呼ばれている。(士師記6章16~24節) 
 ギデオンは、ミディアン人の襲撃を恐れ、隠れて作業をしていた小心な農民でした。そこに現れた主の使いが「主はあなたと共にいる」とあいさつすると、ギデオンは反発します。ミディアン人に苦しめられている現状は、主が見放したからではないのか、と言い返すのです。彼は、イスラエルが主に背いてしまっているありさまをよく承知していました。そもそも彼の父の家でも偶像を祭っていたのです。主に背いた我々はもう主から見捨てられた、救われることはない、という暗い絶望の中にありました。「わたしがあなたを遣わす」との主のことばにも、自分の非力さを訴えるギデオンでした。
 それでも、ギデオンはみ使いをひきとめ、主のしるしを求めます。彼が肉とパンを用意すると、それは焼き尽くす供え物とされ、み使いの姿は見えなくなります。ギデオンは「平和の主」と出会ったことを悟ります。
 「平和」は原文では「シャローム」です。広くよい関係・状態をいう語で、平和・平安・安心・繁栄などの意味を含みます。主は背いた民を見捨てず、共にいて、力を与え、遣わし、平和をもたらし、救ってくださるのです。
 この後、ギデオンはただちに行動を起こします。偶像を退けて主への信仰を立て直し、また神の民を再結集させていくのです。
 かつて、主イエス・キリストの十字架の死のあと、二人の弟子が暗い顔をしてエマオへの道をたどっていました。しかし主イエスはそこに共にいてくださり、そうとは知らずにひきとめた弟子たちの前でパンを裂き、姿が見えなくなりました。主が共にいるしるしを示され、弟子たちはただちに出発します。そして信仰が新たにされ、新しい神の民が結集されていくのです。
 聖餐は、主が共におられるしるしです。今日の世界聖餐日、世界の教会と共に平和の主のしるしを示されます。
 

2019年10月 5日 (土)

9月29日「女たちの逆襲」

 ラピドトの妻、女預言者デボラが、士師としてイスラエルを裁くようになったのはそのころである。彼女は、エフライム山地のラマとベテルの間にあるデボラのなつめやしの木の下に座を定め、イスラエルの人々はその彼女に裁きを求めて上ることにしていた。さて、彼女は人を遣わして、ナフタリのケデシュからアビノアムの子バラクを呼び寄せて言った。「イスラエルの神、主がお命じになったではありませんか。『行け、ナフタリ人とゼブルン人一万を動員し、タボル山に集結させよ。わたしはヤビンの将軍シセラとその戦車、軍勢をお前に対してキション川に集結させる。わたしは彼をお前の手に渡す』と。」バラクはデボラに言った。「あなたが共に来てくださるなら、行きます。もし来てくださらないなら、わたしは行きません。」デボラは、「わたしも一緒に行きます。ただし今回の出陣で、あなたは栄誉を自分のものとすることはできません。主は女の手にシセラを売り渡されるからです」と答え、直ちにバラクと共にケデシュに向かった。  (士師記4章4~9節)

 デボラは唯一の女性の士師です。そのころ、イスラエルの民はカナンの王の支配に苦しんでいました。日々、人々の相談にあずかっていたデボラは、そういう民の実情をつぶさに知ったことでしょう。神のことばを聞いたデボラは、バラクを促して決起させます。デボラの指導のもと、イスラエルは、将軍シセラの率いる最新鋭の戦車隊を壊滅させました。
 シセラは、友好関係にあったカイン人へベルの妻ヤエルの天幕に逃げ込みました。しかしヤエルは、安心して寝込んだシセラを殺してしまいます。こうして女たちの手によってイスラエルは救われたのでした。
 しかし、後の時代、男性中心のユダヤの社会にあって、デボラは必ずしも高く評価されていません。ヤエルに至っては、客人をあざむいた悪女とされることもあります。
 けれども、ヤエルは、強引に天幕にやってきた危険な男から身を守って逆襲したと考えることもできます。デボラの働きも、士師記じたいは高く評価して記しています。男性中心の社会であった古代イスラエルの人々も、男たちに逆襲した女たちの活躍を語り伝えていたのです。
 今日でも、男性中心・男性本位の社会の現状に異を唱えて女性の尊厳や立場の回復をもとめる運動が続いています。いわゆる「慰安婦問題」の根底にも日常的に女性をおとしめさげすんできた関係や感覚が横たわっています。女性たちの抗議や逆襲に対する暴力的な反発や怒りもまたそういう感覚のあらわれでしょう。
 遠い昔、デボラやヤエルの姿勢や行動に勇気づけられ、それを語り伝えた女たちの信仰と希望を、現代にあって聞き取りましょう。
 

2019年9月21日 (土)

9月15日「ひとりだけで」

イスラエルの人々は、またも主の目に悪とされることを行った。彼らが主の目に悪とされることを行ったので、主は、モアブの王エグロンを強くすることでイスラエルを脅かされた。彼はアンモン人とアマレク人を集め、攻めて来てイスラエルを破り、なつめやしの町を占領した。こうしてイスラエルの人々は、十八年間、モアブの王エグロンに仕えなければならなかった。イスラエルの人々が主に助けを求めて叫んだので、主は彼らのために一人の救助者を立てられた。これがベニヤミン族のゲラの子、左利きのエフドである。(士師記3章12~15節b)
 士師たちの活躍は、『士師記』という書物にまとめられる前は、イスラエルの民の間で語り継がれていました。その間に物語は整えられ、そこに神の民の信仰が刻み込まれていきました。士師たちの物語を昔のイスラエルの民がどんなふうに聞いたか追体験することで、その信仰がわたしたちにも伝わってきます。きょうはエフドの物語を読みましょう。
 かつてエジプトの王の支配から救い出されて神と契約を結んだイスラエルは、神を忘れ、その結果、またもや異民族の王に支配されるようになってしまいました。イスラエルは助けを求めて叫びましたが、はたしてきちんと悔い改めたのかは定かでありません。それでも神は救いの手をさしのべてくださいました。
 エフドは左利きでした。そのために不自由を覚え、さげすまれることもあったでしょう。しかし、モアブの王を倒す際にはそれが有利に働きました。武器をうまく隠して密室で王と対面し、油断させて王を暗殺したのです。
 エフドが通った「偶像のあるところ(19・26節)」とは、モアブの神々をまつった神殿でしょう。モアブの神々は、モアブの王を守れず、また王を倒したエフドを裁くこともありません。偶像はまったく無力です。
 エフドという名は「ひとり」を意味するという説があります。たしかにエフドは、左利きという孤独を抱えながら、自分ひとりで決意して、たったひとり王に立ち向かい、イスラエルの民によびかけてひとり先頭に立ち、過酷な支配を退けたのでした。
 ひとり、さげすまれ退けられた者が、民全体に救いをもたらしました。わたしたちもそういう物語を知っています。ひとり十字架に赴いて救いをなしとげたキリストの物語を、わたしたちも信仰をもって語り継ぐのです。 

2019年9月14日 (土)

9月8日 「士師の時代」

主は士師たちを立てて、彼らを略奪者の手から救い出された。しかし、彼らは士師たちにも耳を傾けず、他の神々を恋い慕って姦淫し、これにひれ伏した。彼らは、先祖が主の戒めに聞き従って歩んでいた道を早々に離れ、同じように歩もうとはしなかった。主は彼らのために士師たちを立て、士師と共にいて、その士師の存命中敵の手から救ってくださったが、それは圧迫し迫害する者を前にしてうめく彼らを、主が哀れに思われたからである。その士師が死ぬと、彼らはまた先祖よりいっそう堕落して、他の神々に従い、これに仕え、ひれ伏し、その悪い行いとかたくなな歩みを何一つ断たなかった。主はイスラエルに対して怒りに燃え、こう言われた。「この民はわたしが先祖に命じたわたしの契約を破り、わたしの声に耳を傾けなかったので、 ヨシュアが死んだときに残した諸国の民を、わたしはもうこれ以上一人も追い払わないことにする。彼らによってイスラエルを試し、先祖が歩み続けたように主の道を歩み続けるかどうか見るためである。」主はこれらの諸国の民をそのままとどまらせ、すぐ追い払うことはなさらなかった。彼らをヨシュアの手に渡すこともなさらなかった。 (士師記2章16~23節)

 士師記は、ヨシュアの死後、イスラエルが王国となるまでの時代を記しています。イスラエルの12部族がそれぞれに生活を営み、全体をまとめる組織、統一国家はまだありませんでした。なにかことが起こると、その時にふさわしい指導者が現れ、民を導きました。それが「士師」です。
 この士師の時代は、民が繰り返し神に背き、まとまらず、外敵に脅かされた厳しい時代といえます。その後、王国時代になると、イスラエルは統一国家のもと強大になって諸民族を支配し、都エルサレムを中心に富み栄え、神殿が建てられて信仰生活も整えられることになります。士師の時代は、王国以前の、古く未熟な、遅れた弱い時代と考えられるでしょうか。
 ところが、聖書には、別の見方もあります。士師の時代は神ご自身がイスラエルを治め裁いた時代であり、人間の王が神に成り代わって権力を握る体制は、神の民の堕落だ、というのです。
 士師の時代を、どうとらえるべきでしょう。2章16節以下では、神に背く民を、それでも神は見捨てず、士師によって救われたと語られます。この時代は、神のあわれみと救いの時代でもありました。また、20節以下には、神は、はじめの信仰に立ち返るかどうかを試すために苦しみを与えられたと記されます。士師の時代は、試練の時代でした。そして、試練に耐えかねて苦しみうめく、弱く愚かな民を、くりかえし神はあわれみ、救いをもたらしてくださったのです。
 神は愛するゆえにその民を鍛錬されます(ヘブライ12:4以下)。私たちの人生にも、そして新しい神の民、教会の歩みにもまた、困難や課題が与えられます。そのなかでうめき苦しみながら、くりかえし神のあわれみと助けを与えられて、私たちは信仰を鍛えられ成長していくのです。 

2019年9月 7日 (土)

9月1日 「キリストに照らされ」 召天者記念礼拝

明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。
「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。
そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」   (エフェソの信徒への手紙5章14節)
 

 14節に引用されているのは、当時の教会の讃美歌の一節と考えられています。死者の復活をうたう内容です。
 キリスト教は、復活信仰が原点です。ガリラヤで活躍したナザレのイエスは十字架で殺され、弟子たちも散り散りに逃げ去りました。これで終わればイエスのことなど歴史の中に埋もれてしまったことでしょう。しかし、三日の後イエスは復活したと弟子たちは言いだし、再び集結します。こんどは迫害や弾圧にも屈せず、いのちがけで復活を宣べ伝え始めたのです。
 そして、イエス・キリストは復活した、我々もまた復活する、と主張します。死によって私たちは滅ぶのではない、死は最後の裁き、罰ではない、神の力は死よりも強く、死から私たちを救い出すことができる、というのです。
 ヨハネの黙示録には、そういう教会の信仰が数々のふしぎなイメージであらわされていますが、神の支配のもとで復活の命を生きる姿が、「光に照らされる」というイメージで描かれます(黙示録21章23節以下)。黙示録は、厳しい弾圧・迫害のもとで記されました。迫害に苦しみ、命も脅かされる人生は、けっして明るいとは言えないかもしれないけれど、それは必ずキリストに照らされ、永遠に明るく光り輝くものとされるというのです。
 今日、召天者記念礼拝で覚える方々も、必ずしも明るく楽しい生涯を送ったとは限りません。人生の重荷を負ったつらく苦しい場面も重なったことでしょう。しかし、その命がキリストに照らされ、輝くものとされるのです。
 14節の讃美歌は、実際には洗礼式で歌われたとも推測されています。洗礼は、復活のいのちを今ここで生き始めることのしるしです。わたしたちの生涯は、ついにはキリストに照らされることを信じる時、わたしたちは死にも脅かされない新しいいのちを今ここで生きるものとされるのです。
 
 

2019年8月31日 (土)

8月25日「神の武具」

最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。(エフェソの信徒への手紙6章10~13節)

 きょうの箇所は、一読すると武器に頼るような表現に違和感を覚えるかもしれません。けれども、「強くなりなさい」(10節)とは敵にいどみかかることではありません。繰り返し「立つ」と言われている(11、13、14節)ように、襲いかかってくる力に打ち倒されず立ち続ける抵抗力を「強さ」といっているのです。「邪悪な日(13節)」つまり「邪悪な時代」にあって、それに負けず、のみこまれず、立ち続けるようにと励まされています。戦う相手は「血肉」つまり生身の人間ではなく、人間を超えた力、人を惑わし、動かし、苦しみと滅びをもたらしている悪そのものなのです(12節)。
 先日亡くなった父は、幼い頃に戦争によって人生の重荷を負わされ、生涯を戦争に立ち向かって歩みました。悪い時代をもたらす悪そのものを見極め、主により頼み、その偉大な力によってしっかりと立って、生身の人間ではなく、人の心をまどわす力を相手に戦うために、神の武具を身にまとう生き方であったと思います。
 14節以下に列挙されている武具は、いずれも身を守るための装備です。唯一の攻撃的な武器として「霊の剣、すなわち神のことば」があげられますが、「神のことば」が「祈り」(18節)のことだとすれば、これもやはり身を守るためのものでしょう。困難な時代の中、それでもなおみこころに立ち続けるための神の守り、すなわち神の武具があるのです。
 これらのたとえは、原文では「あなたがたは」と複数形で語られています。当時、固いきずなで結ばれ、互いを守りかばいあって戦ったローマの兵士たちの部隊がイメージされているのです。わたしたちはひとりで悪に立ち向かうのではありません。教会は、共に神の武具に守られた信仰の仲間、共同体としてかばいあい支えって、この時代に立ち続けるのです。

 

2019年8月17日 (土)

8月11日「キリストのように」

キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。 (エフェソの信徒への手紙5章21節)
 それぞれの家庭での苦労や困難について、教会の中でも話題にしづらいかもしれません。しかし、最初の頃の教会では、きっとそんなことも教会の信仰の交わりの中で受けとめられていたのでしょう。エフェソの信徒への手紙では、そんな状況を前提に、「妻と夫」「子と親」そして「奴隷と主人」といった、家庭の問題についての教えが記されています。21節は、「妻と夫」の関係だけでなく、家庭のことがら全般についての原則です。
 キリストに対する「おそれ」とは、こわがり、おびえることではなく、「うやまう」「とうとぶ」「畏敬」「敬意」「尊重」という意味です。家族に対し、そういう「敬意」をもって、「互いに仕えあいなさい」というのです。これは当時の社会では衝撃的な教えでした。家庭は、夫であり父であり主人であるものが一方的に支配し、仕えさせるものだったからです。当時の常識は、「妻は夫に対するおそれをもって夫に仕えなさい」「子は父に対するおそれをもって父につかえなさい」というものでした。しかし、ここでは夫・父・主人に対し、「互いに仕えあいなさい」とうながしているのです。
 この、家庭生活についての教えは、4章17節以下の、新しい生き方へのうながしの一部です。信仰者は、教会で、キリストに学び、新しくされます。そういうキリスト者にとって、教会だけでなく、家庭もまた、キリストのもとに互いに仕えあう関係によって成り立つところとなります。信仰をもつとき、それぞれのプライベートな家庭生活からして変わっていくのです。
 現実には、家庭生活、家族との関係を変えていくのは容易ではありません。家庭のありかたは、生活のなかでもなかなか変えられないところです。しかし、キリストは、そこからして私たちを新しくすることができます。そこに希望があるのです。

2019年8月10日 (土)

8月4日「光とされる」平和聖日礼拝

あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。―光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。― 何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。(エフェソの信徒への手紙5章8~13節)

 毎年8月には、広島・長崎の原爆被害、そして15日の敗戦記念日を覚え、戦争の悲惨と苦難を思い起こし、平和への思いを深めます。
 しかし、8月15日が意味するのは苦難や悲痛だけではありません。近隣アジア諸国、とりわけ植民地だった台湾・朝鮮の人々にとっては、日本の支配という災いから救われた解放の日であったことを心に刻まなければなりません。あたかもバビロンの滅亡を喜ぶイザヤ書14章のように、日本の敗北を喜ぶ声があがったのです。
 いま日韓関係が非常に困難になっていますが、そのきっかけは元徴用工の問題とされています。日本政府は、国家間の条約で解決ずみとしていますが、しかし、かつての抑圧的支配のもとで苦しんだひとりひとりの人生に対しては何の補償も約束されないままにされてきました。
 戦争中、朱鞠内のダム工事で犠牲となった朝鮮人労働者の遺骨を発掘し、故郷に返す働きが何十年も続けられています。日本・韓国・在日の若者が共同で作業にあたり、それが新たな平和の希望の光となっています。
 あの時代、キリスト教会はどうだったでしょうか。百年前の3・1独立運動には多くの朝鮮人キリスト者がかかわっていました。しかし、日本のキリスト教会は、日本の支配のためにつごうよく利用され、朝鮮の教会や信仰者を抑圧する側にあったのです。
 「あなたがたは以前には暗闇でした(8節)」との厳しいことばを、うなだれて受け止めなければなりません。それでも主は、暗闇だったわたしたちを「光の子」とすることがおできになります。主のめぐみのみわざに従い、もはや暗闇の業には加わることなく、むしろそれを明るみに出していかなければならないのです。

2019年7月20日 (土)

7月14日 「招かれてひとつ」

そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。(エフェソの信徒への手紙4章1~6節)
 教会には、じつにさまざまな人々が集まっています。年齢も違い、経歴も社会的立場も異なります。負っている人生の重荷も、教会に来たきっかけも、聖書の読み方や信仰生活のスタイルもそれぞれです。
 自分にとって好ましい人ばかりが来ているわけではありません。だれがこの教会に来るのか、目に見える条件はありません。なぜか、この顔ぶれのひとりひとりがふしぎにもここに来るようになったのです。
 それを聖書は「招かれた」と表現します。神が、なぜか、この人たちひとりひとりを招いて、ここに、いっしょの席に着かせたのです。だから、神に招かれた人のことを、拒んだりさげすんだり、退けたりすることはできません。神の招きを、大切に受けとめるのです。
 しかし、それは決して簡単ではありません。自分とはあまりに違う人と出会い、いっしょに過ごすのは、時に大きなストレスです。どうしても共感できず、考えを共有できず、隔てを生じ、食い違い、対立し、遠ざかってしまうのです。
 けれども、「一つ」ということは、「同じ」ということではありません。招かれた者たちは、同じだから招かれたのではありません。ただひとつ、共通なのは、「神に招かれている」「神によってここに存在している」ということです。その一点が、希望です。神がいっしょにしてくださったのだから、この人とさえいっしょになれる、と信じるのです。
 教会の中だけではありません。違う者たちがそれでもいっしょになって、互いの存在を大切にし、共に生きていくのは、この社会の大きな課題です。教会は、この世にあって、違う者がいっしょに生きていく希望の姿を示していく使命があるのです。
 

 

2019年7月13日 (土)

7月7日 「わかってくれたら」

こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。(エフェソの信徒への手紙3章14~19節)

 「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ(18節)」とは何を表すのでしょう。
 「広い愛」は「狭い愛」の反対だと考えると、相手を限定せず、どんな人もとりのこすことのない愛のことでしょうか。
 「深い愛」は、「心にしみる愛」「思慮深い愛」「どんな状況でも揺るがない愛」などの意味でよく使われます。しかし「高い愛」とはふつう言いません。あえて意味を考えれば、天の高みからくる崇高な愛、愛の神聖さのことでしょうか。そして、「深さ」を、このような「高さ」と対比して考えれば、世の中の底辺とされる人々、あるいは人の心のどん底、さらにはもっとも深い罪の奥底にまで及ぶ愛、という意味にとれます。
 「長さ」は、ここでは時間の長さではなく、距離をいう語のようです。「長い愛」とは、目の前の相手だけでなく、遠くにまでおよぶ愛でしょうか。
 こうしたキリストの愛は、「人の知識をはるかに超える(19節)」とほうもなく大きな愛です。こういう愛を、わかってほしい、そしてその豊かさにあずかるように、満たされるように、という切なる祈りがここにあります(14節以下)。
 この祈りは、2章にくわしく述べられている「キリストの体」「神の家族」「神の住まい」としての教会のための祈りです。あなたがたには、キリストの愛を、もっともっとわかってほしい、それをわかってくれたら、あなたたちはその愛にいっそうゆたかに満たされ、愛に根ざし、愛にしっかりと立って、キリストの体として成長し、建てられていくだろうと祈っているのです。
 これは、「あなたがた」のための祈りです。「あなたがた」とは、もちろん、この手紙の当時の読者である教会のことですが、そこには、時を超えて今この手紙を読むわたしたちも含まれています。わたしたちの教会もこの祈りの中におかれているのです。

 

より以前の記事一覧