カテゴリー「説教要旨」の記事

2023年10月28日 (土)

10月29日「愛の痛み」

愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。(ヨハネの手紙一 4章7~12節)
 ヨハネの手紙一は、教会の交わりについて教え、互いに愛し合うようくりかえし促しています。その愛は、イエス・キリストにおいて示された神の愛です。神は独り子を世に与えてくださいました(ヨハネ3:16)。それは、ただ世に遣わすというだけでなく、御子を世の力に引き渡し、十字架の死に引き渡すことまでを含んでいます(10節)。神の愛とは、みずからを引き裂くようにして愛する独り子を手放し、引き渡し、離れさせる、厳しい痛みと悲しみをともなう愛でした。神の愛がこのようなものだとすると、わたしたちの愛もまた、時に厳しい別れの痛みと悲しみをともなうものとなるでしょう。
 幼稚園や学校の先生は、そのことをよくわかっています。こどもたちを愛し、教え育てるのは、卒園・卒業の別れのときのためです。いつまでも共にいるためではなく、いつか自分のもとから離れさせる別れのために愛を注ぎます。
 親もまた、こどもと離れ、別れる時にむかってこどもを育てなければなりません。愛するものと離れ、遠ざかる、その寂しさや悲しみ痛みをあえて引き受けるところに愛があるのです。
 いま、わたしたちも別れの時に臨んでいます。牧師にとっても、愛する教会を離れることによって、愛がまっとうされるのでしょう。まもなく、この北部教会から離れ、遠ざからなければなりません。北部教会は、久世牧師と別れ、卒業していくのです。
 もちろん、今後も顔を合わせる交流の機会は多くあるでしょう。しかし、牧師と信徒として、あるいは北部教会のこれからの歩みには、かかわることはできません。そうやって距離をおき、離れることは、寂しくつらいことです。しかし、愛は痛みを、悲しさをともなうというのが、イエス・キリストに示された神の愛ではないでしょうか。別れ、離れ、遠ざかる愛をもって、愛しあいましょう。

2023年10月21日 (土)

10月15日「わかちあう」収穫感謝日礼拝

イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。
(ヨハネの手紙一 3章16~18節)
 人間の営みによって地球環境が激変し、極端な気候や、ウイルスの流行など、人間の社会や生活に厳しい影響がもたらされています。それだけでなく、禁輸政策や戦争など、人間社会の動向もわたしたちの食卓をゆさぶります。日本では食料がゆたかに余っているようでも、そのみかけの現実はとてももろいものです。しかも、日本の社会のなかでも、充分な食べ物を得ることができない現実が広がっています。経済格差が広がり、支援を求める人々は増える一方です。こうした深刻な世界の中で、わたしたちはどうしたらよいのでしょう。
 きょうの聖書は、命にかかわる愛を語っています。命をもたらす食べ物が問題となっている今、わたしたちの愛が問われています。必要に事欠く人々のために、わたしたちは自分の命を養う食べ物を手放すことができるでしょうか。
 「わたしたちのために命を捨ててくださった(16節)」主イエスの記念として、わたしたちはパンと杯をわけあいますが、それは意義深いことです。主の愛を知るわたしたちは、パンを、食べ物をわけあうように導かれているのです。きょう、もちよった食べ物を、会津放射能情報センターに送り、かかわる家庭にわかちあいます。
 ところで、「わかちあう」というとき、たいてい自分が「わかち与える」ことを考えます。しかし、わたしたちが今日食べる食べ物は、生産者たちが、さまざまな労苦や将来への不安の中でも、その生活をかけて作り出し、送り出したものです。わたしたちは生産者たちから命をわけていただいているのです。それだけではありません。世界で充分な食べ物を得ることができないでいる人々にも当然わかち与えられるべき食べ物が、しかしそこに行くことなく、回りまわってわたしの食卓にのぼっているのではないでしょうか。わたしたち自身、多くの人々から、命をわかち与えられていることを覚えましょう。

2023年10月14日 (土)

10月8日 「惑わすもの」

 愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。子たちよ、あなたがたは神に属しており、偽預言者たちに打ち勝ちました。なぜなら、あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。偽預言者たちは世に属しており、そのため、世のことを話し、世は彼らに耳を傾けます。わたしたちは神に属する者です。神を知る人は、わたしたちに耳を傾けますが、神に属していない者は、わたしたちに耳を傾けません。これによって、真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることができます。(ヨハネの手紙一 4章1~6節)
 元首相の銃撃事件をきっかけに、「カルト」の問題が広く関心を集めています。キリスト教を装ったカルトへの警戒もよびかけられています。 「どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです(1節)」という句は、今日のカルト問題をもいいあてているようです。ただし、この句は、直接には、当時の教会の中の問題に関して述べているものです。
 教会ができてまもないころ、まだキリストの福音の本質・真理がなにか、理解が確立していない中で、さまざまな理解や教えが語られていました。そこで「イエス・キリストが肉となって来られた」こと、つまり主イエスは肉体をもった人間であったことを認めない教えがかなり広まったようです。この手紙はそういう主張を「偽預言者」ときびしくしりぞけています。
 イエス・キリストは、肉体をもった人間ではない、という考えの根底には、人間という存在を軽んずる考えがあります。それに対し、この手紙は、くりかえし「愛し合う」ことを促しています。肉体をもち、それゆえに限界をかかえた不完全な人間という存在を、それでも受け入れ、認め、尊重し、愛するように促します。神は、この人間という存在を愛し、肉体をもつ人間となってくださいました。だからわたしたちも愛し合うのです。
 カルトもまた、人間を軽んじ、ないがしろにするものです。しかし、教会そのものも、ときに福音を見失い、人間を軽んじ、愛を失うことがあります。かつて、ナチス支配下で「ドイツ的キリスト教」が主張され、日本でも「日本的キリスト教」が唱えられました。時代の力は、今もなお、あるいは今こそ、わたしたちをおびやかしています。惑わすものをしっかり見分け、惑わすものではなく神に従い、愛することを追い求めましょう。

2023年10月 7日 (土)

10月1日 「証しを内に」 世界聖餐日礼拝

この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。そして、“霊”はこのことを証しする方です。“霊”は真理だからです。証しするのは三者で、“霊”と水と血です。この三者は一致しています。わたしたちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しは更にまさっています。神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです。神の子を信じる人は、自分の内にこの証しがあり、神を信じない人は、神が御子についてなさった証しを信じていないため、神を偽り者にしてしまっています。その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。(ヨハネの手紙一 5章6~12節)
 イエス・キリストが「水と血を通ってこられた方(6節)」というのはどういうことでしょうか。
 「水を通る」とは、洗礼のことでしょう。主イエスは洗礼者ヨハネのもとで洗礼を受け、ヨハネは「イエスが神の子である(5節)」と証ししました。また、「血」は主イエスの十字架の死をあらわすでしょう。「水だけでなく、水と血によって(6節)」とは、ヨハネ19:34をふまえて十字架の死を強調しているのでしょう。
 さらに「“霊”はこのことを証しする(6節)」「神の証し(9節)」と加えているのは、教会の聖礼典、洗礼と聖餐のことを語っているのだと考えられます。
 わたしたちは水で洗礼を受けてキリストにつながります。ただの水がそういう意味をもつのは聖霊の働きによるというのがわたしたちの信仰です。また、血は、キリストの十字架の死を思い起こす聖餐の杯です。聖餐のパンと杯をいただくとき、聖霊の働きでわたしたちの内にキリストが証しされます。
 聖餐は、直接には「最後の晩餐」の記念ですが、それにはだいじな前提があります。主イエスは、多くの人々とわけへだてなく食卓を共にし、福音を宣べ伝えてきました。また最後の晩餐は神の救いを記念する過越祭の食事でした。さらに、聖餐には、復活の主と共にした食卓や、やがて来るべき神の国の祝宴の意味も重ねられます。パンと杯は、神の恵みと人の働きによって命を養う糧ですが、それを分ちあう(コイノニア)ことで、それぞれが主と交わるだけでなく、互いの交わりを与えられることになります。
 きょうは世界聖餐日です。この分断された世界にあって、聖餐をわかちあうことで、なおわたしたちがつながる希望を新たにします。いつか、神の支配がもたらされ、ひとつの食卓に招かれる希望を思い描きます。聖餐によって、キリストという希望の証しがわたしたちの内にもたらされるのです。

2023年9月30日 (土)

9月24日「神の子に」

御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。
(ヨハネの手紙一 3章1~3節)
 父は、戦後まもなく、中学生のときに叔父夫妻の養子となって育てられました。ただでさえ難しい年頃です。子として引き取られても、すぐに「親子」の関係になれたわけではなかったようです。
 「今日からあなたはわたしの子だ」と言われても、ほんとうにそのような関係になるのは簡単ではありません。
 この子の親になる、というのは大きな決断です。その子のこれからに責任を負い、困難や苦悩を担うことになるのです。そこに大きな愛があります。神は、わたしたちを「神の子」にしてくださり、独り子キリストのように受け入れ、扱ってくださるといいます。そこに大きな愛があります(1節)。しかし、「子」のほうで、それをそのまま受け入れるのはむずかしいのかもしれません。
 里子となって里親に引き取られたこどもが、まるで里親の愛を試すように、困らせたり怒らせたりするようふるまうことがあるといいます。わたしたちも、「神の子」といわれても、それを受け入れ信じることができずに、疑ったり試したりしてしまいます。しかし、それでも神は、わたしたちを「子」として愛し、支え、守ってくれるのです。わたしたちは、すでに「子」とされた救いの中にあるのです。
 いつか、わたしたちもそのことを受け入れ、神を信頼し、愛を疑わず、さらにその愛に応えるものとなるでしょう。御子キリストのように、ほんとうの父と子のように、神との関係を信じ、うけいれるものとなるのです(2節)。
 そのことを意識して、わたしたちは、御子キリストをめざします。「御子が清いように、自分を清める(3節)」のです。それは具体的には、「兄弟を愛する」ということです(10節)。「子」としてくださった神の愛に応え、わたしたちも人を愛する者になるのです。そのことを信じ、めざし、志していきましょう。

2023年9月23日 (土)

9月17日「こども・若者・おとな」

子たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、
イエスの名によってあなたがたの罪が赦されているからである。
父たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、
あなたがたが、初めから存在なさる方を知っているからである。
若者たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、
あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである。
子供たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、
あなたがたが御父を知っているからである。
父たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、
あなたがたが、初めから存在なさる方を知っているからである。
若者たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、
あなたがたが強く、神の言葉があなたがたの内にいつもあり、
あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである。
(ヨハネの手紙一 2章12~14節)

 この箇所では、読者つまり教会の人々を「子・父・若者」に分け、詩の形で、前半(12~13節)と後半(14節)と2回重ねてよびかけています。
 子たちに関しては、「罪が赦されている(12節)」「御父を知っている(14節)」と語られています。「ゆるされる」ことは「父なる神を知る」ことです。
 北部教会は、太平子どもの家を設置し、また礼拝でもこどもたちと共にあることをだいじにしてきました。こどもたちが、そのままで受け入れられ、愛され、祝福されることを聖書的にいえば「ゆるされている」ことになるでしょう。こどもたちは受け入れられ、愛されることで神さまを感じてきたことでしょう。
 ただし、ここでの「子たち」は、実際の幼子ではなく、教会員全体へのよびかけかもしれません(2:1、18,28)。信じる者はみな、ゆるされ、神を知っています。でも、だからこそ教会は、だれよりもこどもたちが受け入れられる場でありたいと思うのです。
 「若者たち」については、「悪に勝つ」ことが強調されます。それだけ青年期には誘惑や迷いが多いからでしょうか。あるいは「若者」とは、信仰に入ってまだ浅い人たちのことを言っているのかもしれません。それでも「あなたがたは悪に勝つ」と励ましているのでしょうか。
 「父たち」とは、女性や単身者を無視した言いかたですが、「おとな」の世代を表わしているのでしょうか。おとなたち、信仰に習熟した人たちは、「初めから存在なさる方」つまりキリストを知る人々とみなされています。
しかし教会は、おとなだけのものではありません。幼子や、思い悩む若者たちを含む共同体、「神の家族」です。年代も経験も課題もちがうひとりひとりが、ゆるされて共に集い、神を知り、キリストを知る、そういう共同体のありかたを大切にしたいのです。

2023年9月17日 (日)

9月10日「ゆるしの光」

わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。(ヨハネの手紙一 1章5~10節)
 ヨハネの手紙一は、教会が、互いに愛し合う共同体、愛の交わりであるようにと促しています。教会が愛しあう共同体であることを、牧師としての願いとし目標としてきました。
 東京郊外の大きな教会で信仰をはぐくまれ、教会の交わりを喜んでいましたが、北海道に来て、大きな衝撃を与えられました。教会の集まりのなかで、個人的な家庭内の悩みまで率直にうちあけ、それをあたたかく聞き、受けとめ、慰め、そして共に祈る交わりがありました。教会の交わりへの信頼と、それを受けとめる愛といつくしみ、そして共にとりなし祈る信仰の姿に、教会のありかたを教えられました。
 教会はキリストの体といい、信仰の共同体といいます。それは日曜日に集まったときだけのつきあいではなく、生活や心の深いところでの交わりです。
 そのために、ヨハネの手紙はここで大事な指摘をしています。交わりのなかで、自分に罪がないといいはるのではなく、罪を認めなければなりません(8~9節)。「罪」とは、いいかえれば、自分の「限界」のこと、さらにいえば、「だめなわたし」ということだと思います。しなければならないことができず、やってはいけないことをしてしまう、自分の限界に直面させられます。そういう「だめなわたし」を率直にさらけだすとき、それでもそれがゆるされ、受け入れられます。それが神のもたらす「ゆるし」であり、教会の交わりは、そのゆるしの光のなかにあるのです。
 ゆるしの光を、「愛」といいかえてよいでしょう。5~7節の「光」という語を「愛」と置きかえて読むとよくわかります。
 私自身、牧師として限界を抱えながら、ゆるされて、この教会の交わりの中で歩んでくることができたことを感謝しているのです。

2023年9月 9日 (土)

9月3日 「命の交わり」 召天者記念礼拝

初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。―― この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。―― わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。
(ヨハネの手紙一 1章1~4節)

 ヨハネの手紙一は、冒頭で「命の言について伝えます」といい、その「命の言」もしくは「命」のことをいろいろに言い表しています(1~2節)。これらの表現は、『ヨハネによる福音書』の冒頭部分をふまえていると考えられます。
 ヨハネ福音書は、父なる神の独り子イエス・キリストを「言」といいあらわします(ヨハネ1:1以下)。それは、キリストが神からのメッセージ、それも裁きと怒りのメッセージではなく、愛と命のメッセージだからです(ヨハネ3:16)。
 ヨハネの手紙は、こうした福音書のことばづかいをふまえて、キリストのことを「命の言」あるいは「命」といっているのでしょう。ただし、ここでの「命の言」は、もう少し広く、「キリストの語った言」、あるいは「キリストについて語る言」が含まれるようです。わたしたちは今、キリストに直接ふれることはできませんが、キリストについての言、つまり聖書や説教などによって、聞き、触れ、知り、そしてキリストのもたらす命、生きる力を与えられるのです。
 この命の言を伝えるのは、「交わりを持つため」と言うのです(3節)。それは、わたしたち人と人との交わりであるとともに、キリストと、また父なる神との交わりにほかなりません(4節)。キリストの命のもたらす交わり、「命の交わり」です。この「交わり」は、また「つながり」と言いかえることができます。キリストの命によってわたしたちは互いにつながり、キリストと、神とつながるのです。
 きょう、召天者記念礼拝にあたり、信仰の先達を覚えます。この人々も、そしてわたしたちも、「命の言」、キリストについて聞き、伝えられ、信じ、その命にあずかるものとされました。わたしたちは、キリストによる命の交わりの中にあり、今も、いつまでも、つながり続けているのです。そのことを信じ、これからの希望としているのです。

2023年8月26日 (土)

8月20日 「労苦を共に」

それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです。わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。(フィリピの信徒への手紙4章14~20節)

 獄中のパウロに、フィリピ教会からの支援金がエパフロディトによって届けられました。「エパフロディトから受け取って満ち足りています(18節)」という句は、当時の会計用語で「全額受領しました」という意味のようです。この段落ではほかにも会計用語が用いられていて、聖書協会共同訳では、「会計を共にしてくれた教会(15節)」「帳簿を黒字にする実り(17節)」と、それらを生かした訳となっています。パウロは、会計の実務にも心を配っていたのでしょう。
 しかしまた、パウロにとって資金援助は信仰に深くかかわるわざでした。「わたしと苦しみを共にしてくれた(14節)」とは、フィリピ教会からの援助には、パウロの獄中生活の苦難を共にする意味があることを示しています。それだけでなく、「福音の宣教の初め(15節)」から、フィリピ教会がずっと「会計を共に」してパウロの働きを支えてきたことも含んでいるでしょう。
 そうした支援を、パウロは「香ばしい香り・・・神が喜んで受けてくださるいけにえ(18節)」と言い、エルサレムの神殿でささげられる犠牲になぞらえます。それをまた「あなたがたの帳簿を黒字にする実り」とも言います。福音宣教にたずさわるパウロの働きを支えるフィリピ教会の献金は、神の喜ぶささげものであり、あなたがたの帳簿には赤字でなく黒字が残っている、もしあなたがたに必要なことがあれば、神がそれを満たしてくださるだろう、というのです(19節)。
 札幌北部教会も、遠く近くの多くの教会の働きのために、献金をささげて支えてきました。なにより、牧師を支えてきました。招聘時の条件を20年にわたって守り続け、少なからぬ負担を負ってきました。牧師は、この教会のためだけでなく、教区や教団のためにも働いてきましたが、この教会はその労苦をも共にしてくれたのです。北部教会の帳簿は、赤字ではなく黒字になっているはずです。この教会のこれからの必要もまた満たされることでしょう。

2023年8月19日 (土)

8月13日 「平和の神があなたがたと共に」

終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。(フィリピの信徒への手紙4章8~9節)
 フィリピの教会は「平和」ではありませんでした。エボディアとシンティケという二人の信徒が不仲となり、それが教会全体に影響をおよぼしてしまっていたのです。パウロは手紙の中であえて実名をだして率直に和解を勧め(2節)、また他の信徒に和解のとりなしを頼んでいます(3節)。
 それだけではありません。4節以下に記された勧めも、ただの一般的な教えではなく、不和に悩むフィリピの教会にあてた促しとして読むべきでしょう。
 教会に平和が失われると、喜びも失われます。いつも喜んでいられるようにしなければなりません(4節)。憤りにとらわれず、寛容な「広い心」を示すよう促します(5節)。関係がこじれると相手の言動がいちいち気になり、それがまた疑いや憤りを生みます。そんなふうに「思い煩うのはやめなさい(6節)」。気にくわない相手に、いろいろなことを要求したくなりますが、「求めているものを神に打ち明けなさい(6節)」。そうすれば神の平和が、心と考えを守るでしょう、とパウロは記します(7節)。さらに、対立する相手のことであっても、すべてよいことを心に留めるよう促します(8節)。そのように実行するとき、きっと「平和の神はあなたがたと共におられます(9節)」。
 礼拝の祝祷でいつもコリント二13:11を読んでいますが、同じ「平和の神があなたがたと共に」という句があります。当時の教会で祝祷として用いられた句と考えらえますが、パウロは、交わりの危機に直面したコリント教会やフィリピ教会に対し、平和をもたらす者となるよう促しをこめてこの句を記したのでしょう。
 パウロの念頭にあったのは、教会のなかの平和でした。しかし、教会で、和解と平和をもたらすふるまい、平和のつくりかたを身につけた人々は、この世にあって平和をつくりだす力をも得ていくでしょう。その人々に、平和の神は共にいてくださるのです。

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