カテゴリー「説教要旨」の記事

2017年11月11日 (土)

11月5日 「塵の上に立つ方」

わたしは知っている
わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。
この皮膚が損なわれようとも、この身をもってわたしは神を仰ぎ見るであろう。
このわたしが仰ぎ見る
ほかならぬこの目で見る。
腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る。
(ヨブ19章25~27節)

 1600年前、聖書をラテン語に訳したヒエロニムスは、この箇所を「私をあがなう方は生きておられ、終わりの日に私は地からよみがえり、再び皮膚をまとってわが身において神を仰ぎみるであろう」という意味に訳しました。ヨブは、キリストを信じる者の復活を預言している、と読みとったのです。
 しかし正確には、原文では「地(塵)の上に立つ」のはヨブではなく「あがなう方」のことです。「塵」とは「土の塵」のことです。人は塵から創られ、死ねば塵に返るものです(創世記3:19)。この箇所の「塵」は、ヨブの死を示すでしょう。ヨブが死んだとしても、別の「あがなう方」がいる、というのです。
 「あがなう」とは、もともと捕虜や奴隷を、代金を払って買い戻して救い出し、解放することでした。また殺害された人のために報復して無念をはらすことをも含みます。「立つ」とは、法廷で弁論する姿勢です。つまりヨブは、自分が死んだとしても、ヨブのために、その主張を代弁し、かばい、とりなし、無念をはらす方がいる、と述べているのです。
 この「あがなう方」とは、ほかならぬ神ご自身のことだと、多くの聖書学者は考えています。
 神は理不尽にもヨブに苦難をもたらしました。絶対者である神にとって、ヨブの存在など塵のようにはかなくむなしいものであることを、ヨブはよくわきまえています。しかし、それでもヨブは、神は自分の存在をむなしく終わらせはしない、神はわかってくださる、と信じているのです。
 人間からかけはなれた絶対者である神が、しかし塵にすぎない私をかえりみてくださるという信仰は、旧新約聖書全体を貫いて証されています。ヒエロニムスは、翻訳者としてしては間違いを犯したとしても、ここにキリストを読みとったその信仰は間違っていなかったと言えるでしょう。
 

2017年10月28日 (土)

10月22日 「神に挑む」

わたしのようなものがどうして神に答え、神に対して言うべき言葉を選び出せよう。
わたしの方が正しくても、答えることはできず、わたしを裁く方に憐れみを乞うだけだ。
しかし、わたしが呼びかけても返事はなさるまい。
わたしの声に耳を傾けてくださるとは思えない。
神は髪の毛一筋ほどのことでわたしを傷つけ、理由もなくわたしに傷を加えられる。
息つく暇も与えず、苦しみに苦しみを加えられる。
力に訴えても、見よ、神は強い。
正義に訴えても証人となってくれるものはいない。
わたしが正しいと主張しているのに、口をもって背いたことにされる。
無垢なのに、曲がった者とされる。
無垢かどうかすら、もうわたしは知らない。生きていたくない。
だからわたしは言う、同じことなのだ、と
神は無垢な者も逆らう者も同じように滅ぼし尽くされる、と。
罪もないのに、突然、鞭打たれ、殺される人の絶望を神は嘲笑う。
この地は神に逆らう者の手にゆだねられている。
神がその裁判官の顔を覆われたのだ。
ちがうというなら、誰がそうしたのか。
                       (ヨブ9章14~24節)

 ヨブの友人たちは「神は正しい。神は正しい人を守り、悪人を滅ぼす」と主張します。誰にも納得いくわかりやすい神の姿です。
 しかしヨブは、そんなことはない、と言いはります。「理由もなくわたしに傷を加えられる(17節)」「罪もないのに、突然、鞭打たれる(23節)」といった神のなさりようは、とうてい納得いくものではありません。それもそのはずで、神にとってヨブなどまったくとるに足りない存在です。ヨブは、「わたしのようなものがどうして神に答え、神に対して言うべき言葉を選び出せよう(14節)」「私がよびかけても返事はなさるまい(16節)」とつぶやきます。
 友人たちが示す神は、人間にとって納得できる神であり、言い換えれば人間の理解の範囲におさまる神です。しかしヨブは、神のなさりようは人間が理解し納得できる範囲を超えていることを知っています。ヨブのほうが、神を神とし、人間を超えた絶対の存在として認め畏れているといえます。
 それでもヨブは、絶対者である神に対して黙っていません。「恐れることなくわたしは宣言するだろう、わたしは正当に扱われていない、と(35節)」。神は絶対だとわかっていても、なお、神に向き合い、訴え、主張します。無謀にも、神に挑むのです。
 創世記32章に、神に挑んだ人のエピソードが記されています。帰郷を目前に苦悩するヤコブは、一晩、何者かと格闘しました。ヤコブは腿を痛めますが、相手は「お前は神と闘って勝った」と祝福します。本来なら絶対者である神に挑んで勝つなどありえないことです。しかし神は、ふしぎにも人が神に挑むことをおゆるしになり、たとえ傷を負わせたとしても、勝利と祝福をお与えになることがあるのです。とるに足りないわたしたちですが、納得のいかない神に挑むことがあります。そこに、ふしぎにも祝福が与えられることがあるのです。

2017年10月21日 (土)

10月15日 収穫感謝日 「神の日を見る」

なぜ、全能者のもとにはさまざまな時が蓄えられていないのか。
なぜ、神を愛する者が神の日を見ることができないのか。
人は地境を移し、家畜の群れを奪って自分のものとし
みなしごのろばを連れ去り、やもめの牛を質草に取る。
乏しい人々は道から押しのけられ、この地の貧しい人々は身を隠す。
彼らは野ろばのように荒れ野に出て労し、食べ物を求め、荒れ地で子に食べさせるパンを捜す。
自分のものでもない畑で刈り入れをさせられ、悪人のぶどう畑で残った房を集める。
着る物もなく裸で夜を過ごし寒さを防ぐための覆いもない。
山で激しい雨にぬれても身を避ける所もなく、岩にすがる。
父のない子は母の胸から引き離され、貧しい人の乳飲み子は人質に取られる。
彼らは身にまとう物もなく、裸で歩き、麦束を運びながらも自分は飢え
並び立つオリーブの間で油を搾り、搾り場でぶどうを踏みながらも渇く。
町では、死にゆく人々が呻き、刺し貫かれた人々があえいでいるが、神はその惨状に心を留めてくださらない。
             (ヨブ24章1~12節)

 災いにあったヨブに、友人たちは「神は正しい」と正論を述べます。神は正しい人を祝福し悪い者には報いて罰する。だからヨブはきっと何か罪を犯したに違いない、神の憐みにすがってゆるしてもらいなさい、と促しますのですが、ヨブは、心あたりはない、私は正しい、と言いはります。友人たちはあきれ怒ってヨブを傲慢だと非難し、ヨブもまた友人に憤ります。
 口論がエスカレートしていく中で、友人たちはくりかえし「神は正しい」と主張します。しかしヨブはそれに疑問をつきつけます。神はほんとうに正しい者を守り悪人を罰しているだろうか、現実はそうなっていないではないかと指摘するのです。
 24章では当時の社会のありさまが告発されています。強い者が力をふるい、弱い者を不当にしいたげています。私たちもまた、そうした現実をまのあたりにしています。
 理不尽な災い、苦悩、重荷があります。決して「神は正しい者を助ける。災いにあうのは悪人だ」などと簡単には言えません。それでもヨブは、「神も仏もない」という虚無に陥るのではなく、神に「なぜ」と問い続けます。「なぜ、あなたはこんなふうになさるのですか」「おかしいではありませんか」との問いは、神を信頼するからこその深く悲痛な問いかけです。
 ヨブ記は、読者もまた「なぜ、神の日を見ることができないのか(1節)」と神に向かって問うように促しています。さらに、ヨブ記を含む聖書全体は「神の日」、終わりのときの神の裁きの日への希望を示すものです。
マタイ福音書25章には、神の日には、すべての民が「小さな者」に対してどうふるまったかが問われると示されています。わたしたちは、神の日をどのように見ることになるでしょうか。

2017年10月14日 (土)

10月8日 「正解」

神は貧しい人を剣の刃から、権力者の手から救い出してくださる。
だからこそ、弱い人にも希望がある。不正はその口を閉ざすであろう。
見よ、幸いなのは神の懲らしめを受ける人。全能者の戒めを拒んではならない。彼は傷つけても、包み、打っても、その御手で癒してくださる。
六度苦難が襲っても、あなたを救い、七度襲っても災いがあなたに触れないようにしてくださる。
飢饉の時には死から、戦いの時には剣から助け出してくださる。
あなたは、陥れる舌からも守られている。
略奪する者が襲っても恐怖を抱くことはない。
略奪や飢饉を笑っていられる。
地の獣に恐怖を抱くこともない。
野の石とは契約を結び、野の獣とは和解する。
あなたは知るだろう、あなたの天幕は安全で牧場の群れを数えて欠けるもののないことを。
あなたは知るだろう、あなたの子孫は増え、一族は野の草のように茂ることを。
麦が実って収穫されるようにあなたは天寿を全うして墓に入ることだろう。
見よ、これが我らの究めたところ。
これこそ確かだ。よく聞いて、悟るがよい。
                         (ヨブ5章15~27節)

 災いにあって「死んだほうが幸いだ」と嘆くヨブを、友人エリファズは「しっかりしろ」と叱り(4:3~5)、「神は正しく、理由なく滅ぼすことはない。ヨブも、神から見れば決して正しいとはいえないはずだ(4:7、17)」とさとします。そして、「神は悪いことをした者を懲らしめることがあっても、それを癒し、救ってくださる。そうなれば君はもう大丈夫だ(5:17~18)」と教えます。つまり、「君は気付いていないうちに罪を犯したに違いない。神に願ってゆるしていただきなさい。きっと救ってくださるだろう」というのです。これは確かにエリファズの信仰から出た、「正しい答」には違いありません。それなのに、ヨブは激しく反発します。「それが悩んでいる友に言うことばか。いつ助けてくれなどと言ったか。いったい、何を言いたいんだ(6:14,22~25)」と、はねつけてしまうのです。
 私たちも、苦悩の友を何とか助けようとして、「正しい答」を示そうとします。しかし、正解が人を救うとは限らないのです。
 主イエスは、正解を教えようとはしませんでした。当時、すべてのことについて、律法に基づく正しい答が求められていましたが、主イエスは律法に基づいてではなく、ご自分のことばで、ご自分に基づいて語り、教えました。「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった(マルコ1:22)」ために、驚きたたえる人々もいた一方で、正しい答つまり律法をないがしろにするものとして憎まれ、ついには殺されてしまったのです。
 正解とは何でしょう。隣人に、全人格をもって向きあうことではないでしょうか。私たちには、全存在をもって向き合ってくださる主イエス・キリストがいらっしゃいます。その愛によって、わたしたちも勇気をもって隣人に全人格をもって向きあう愛へと促されているのです。

2017年10月 8日 (日)

10月1日 世界聖餐日 「嘆きのパン」

日ごとのパンのように嘆きがわたしに巡ってくる。湧き出る水のようにわたしの呻きはとどまらない。(ヨブ3章24節)

 東日本大震災の被災地では「復興支援住宅」が建てられ、これまで仮設住宅に入っていた人たちが移転して新しく住み始めています。しかし、仮設住宅でようやく形作られてきたコミュニティーが失われ、特に高齢の方々がまた孤立におちいることが心配されています。実際、孤独になって食事への意欲も失い、毎日コンビニ弁当ばかりですごす方があると聞きました。食べることは生きる基本です。復興の工事が進み、住宅も備えられましたが、人の心やコミュニティーの傷はまだ深いことを知らされます。
 ヨブもまた、突然の災いにあって生きる気力を失っていました。生まれてこなければよかった、もう生きていたいと思わない、と訴えます。一日一日生きるのがつらいのです。命を養うはずの日ごとのパンを食べるよりも、日ごとに嘆きが心をいっぱいにしてしまっているのです。
 被災地の支援を続けている「エマオ」では、皆で集まっていっしょに食事をするようにしています。共に食事をするその中で、少しずつ生きる意欲を取り戻していくのです。
 集まって共に食べるのは、教会にはなじみ深いいとなみです。主イエスご自身、いつも多くの人と食事を共にしていました。人々は、主イエスと共に食事をするなかで、ふしぎに生きる力を与えられていったのです。主イエス・キリストこそは「命のパン」でした。
 教会は、主イエス・キリストの食卓を「聖餐」として大切にしてきました。10月第1週の「世界聖餐日」は、第二次世界大戦の惨禍を乗りこえて、世界の人々が共に生きるためにとよびかけられて始まったものです。今もなお、嘆きや痛みの中で、生きるつらさを抱えている人々に、「嘆きのパン」にまさる「命のパン」が与えられることを祈りながら、聖餐を共に分かち合いましょう。

2017年9月30日 (土)

9月24日 「苦悩の友」 

サタンは主の前から出て行った。サタンはヨブに手を下し、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせた。ヨブは灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしった。
彼の妻は、「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言ったが、ヨブは答えた。「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。
さて、ヨブと親しいテマン人エリファズ、シュア人ビルダド、ナアマ人ツォファルの三人は、ヨブにふりかかった災難の一部始終を聞くと、見舞い慰めようと相談して、それぞれの国からやって来た。遠くからヨブを見ると、それと見分けられないほどの姿になっていたので、嘆きの声をあげ、衣を裂き、天に向かって塵を振りまき、頭にかぶった。彼らは七日七晩、ヨブと共に地面に座っていたが、その激しい苦痛を見ると、話しかけることもできなかった。 (ヨブ2章7~13節)

 正しい人ヨブに突然災難がふりかかります。家畜や子どもたちを失い、自分自身も全身を皮膚病におかされます。これらは、神にそむいた者にもたらされる災いとして律法に記されています(申命記28章31節以下)。ヨブは神にそむいたというのでしょうか。
 妻からも冷ややかなことばを向けられたヨブのところに友人たちが訪ねてきます。ヨブの惨状にことばを失い、共に座って嘆くばかりでした。ようやく口を開いたヨブは、生まれてこなければよかった、と絶望を訴えます(3:3,11)。驚いた友人たちがたしなめますが、ヨブはなお、死ぬことを願います(6:8~9)。そして、慰めに来たはずの友人たちとの間で、激しい口論になるのです。災いを神からのものと受けとめた(1:21、2:10)はずのヨブが、なぜ急に態度を変えて絶望を口にするようになったのでしょう。
 ヨブにむけた妻のことばは「神を讃えて死になさい(9節)」と訳せます。彼女は、財産とこどもを失ってヨブ以上の痛みと悲しをこうむったはずです。きれいごとをいうばかりで、苦悩を口にしないヨブに、腹立たしく、もどかしく思ったのではないでしょうか。妻のことばはヨブに刺さったでしょう。
 そこにやってきて寄り添ってくれた友にむかってヨブは初めて率直に思いをぶちまけます。ヨブと友人との長く厳しい議論も、互いの信頼が背景にあったはずです。率直にやりあえる友の存在は、ヨブの幸いでした。
 ヨブ記の結末で、神は友人たちとヨブとの和解をもとめます。それによってヨブには苦難にまさる祝福が与えられました。苦悩の中、共にある友の存在が、ヨブと妻に新しい祝福を導いたのです。わたしたちの教会の交わりも、互いの「苦悩の友」でありたいと思います。

2017年9月23日 (土)

9月17日 「理由なしに」

主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」サタンは答えた。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」主はサタンに言われた。「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」サタンは主のもとから出て行った。(ヨブ1章8~12節)

 これから何回かに分けて『ヨブ記』をとりあげます。信仰にもとづく一種の文学作品で、決してわかりやすくはありませんが、かいつまんで読んでいきたいと思います。
 ヨブは「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」と主なる神にも認められていました(8節)。ところがサタンは「利益もないのに神を敬うでしょうか」と、その信仰を疑います。「利益もないのに」とは、「理由なしに」「下心なく」という意味です。ヨブの信仰も理由がある、けっきょくは自分のためだ、というのです。
 マーク・トウェインの『人間とは何か』という短編では、人生に幻滅した老人が純真な若者に「人間の行為は、どんなに崇高な自己犠牲の行為でも、けっきょくは自分の満足のためだ」と語って聞かせます。わたしたちは、自分のためという理由なしに真実に神を畏れることができるでしょうか。
 山浦玄嗣さんは、津波に襲われた人たちに外部の人たちが「なぜこんな目にあったか」と尋ねることに憤っています。それは、「お前たちの拝んでいる神仏は見捨てたではないか。お前たちの信心はなんだったんだ。なんのために信心してきたんだ」という問いだからです。それは、「理由なしに、利益もないのに信心することはないなずだ」というサタンの問いと同じです。
 ヨブは苦難の中で神に「なぜ」と問います。しかしそれは、理由なしに信じることができるかと問われる試練でした。ヨブ記の最後では、ヨブはついに理由を問うことをやめ、理由なしに神を信じるに至ります。
 聖書はまた、理由なしに苦難をもたらす神は、理由なしに救いを与える方であることを示しています。理由なしに信じるとは、理由なしに与えられる救いを信じる促しを含んでいるのです。

2017年9月16日 (土)

9月10日 「キリストの現われ」

実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。十分な権威をもってこれらのことを語り、勧め、戒めなさい。だれにも侮られてはなりません。(テトス2章11~15節)

 
 有能で頼もしい伝道者テトスにあてた手紙の2章11~14節は、当時の教会で用いられていた儀式の式文か讃美歌の歌詞と考えられています。そこに記されただいじな教えを守るよう勧められています。
 11節と13節に「現れ」という語が繰り返されています。もとは「エピファネイア」という語で、キリストの「現われ」を祝う「エピファニー 公現日」の語源です。11節の「すべての人々の救いをもたらす神の恵みが現われました」とは、主イエス・キリストの生涯と、十字架と復活のできごとを通して現された神の救いのできごとを指しています。
 13節にも「キリストの栄光の現れを待ち望む」とあります。これは、いつかキリストが再びおいでになる再臨のことです。キリストの教会は、キリストがいつか再び現われてくださることを信じてきました。今の時代がどんなによこしまで苦しく悪い時代であったとしても、いつかそれは終わり、キリストの救いが完成するという、祝福に満ちた希望として「キリストの現われ」を待ち望んでいるのです。
 12節は、過去と未来の「キリストの現われ」の間のわたしたちの生き方を示しています。「思慮深く、正しく、信心深く」とありますが、それぞれ自分自身、隣人、そして神に対する姿勢を示したものだと解説している人がいます。14節も、こうした二つの「キリストの現われ」の間の生き方を、重ねて述べているようです。
 伝説では、テトスはクレタ島で教会のために働き、この地で長寿をまっとうしたといいます。テトス自身も、そしてわたしたちも、かつてのキリストの現われに支えられ、未来の現れを待ち望んで「思慮深く、正しく、信心深く」生きるよう促され、導かれているのです。

2017年9月 9日 (土)

9月3日召天者記念礼拝 「新しく生きる」

しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。 (テトス3章4~7節)

  『プロテスタンティズム』(深井智朗)という本を読みました。宗教改革の時代背景として、当時の人々がたえず死に直面し、「死んだ後どうなるか」が重大な関心事だった、と指摘しています。それに対しキリスト教は「永遠の命を受け継ぐ(7節)」と教えて人々の心をとらえ支えたというのです。さらにルターは聖書に基づき、永遠の命が与えられるのは人の業によらずただ神の慈しみと愛による、と断言したのでした(4~5節)。
 さて、しかし「永遠の命」とは、死んだ後だけのことでしょうか。
 5節には「この救いは・・・新たに生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現した」とあります。洗礼はキリストに結ばれて新たに歩みだすしるしです。それは、新しく生まれ、造り変えられることだというのです。永遠の命はここから始まっているのです。それは死んだ後だけのことではなく、生きること、生き方に関わることなのです。
 藤原亨牧師は、若い頃、絶望のなかでキリストに出会いました。ふりかえって「まさにわたしは死からよみがえって、新しい人生を歩み始めたのだ」と記しています。永遠の命とは、新しい人生を歩み始めることであり、救いの実現なのです。
 3章1~3節に、かつての生き方と新しい生き方が対比されています。簡単にいってしまえば、自分勝手な、人と隔てられた生き方から、共に生きるものへと変えられるということだと思います。
 きょう、信仰の先達とその生涯を思い起こします。それぞれ、キリストに結ばれ、新しく共に生きるものへと人生を変えられていきました。なにより教会で共に生きるものとされました。主はわたしたちもまたそのように変えることができるのです。主のみわざに信頼して歩みだしましょう。

2017年8月26日 (土)

8月20日 「おりが悪くても」

神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。 (テモテ二 4章1~5節)

  「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても(2節)」という句は、しばしば伝道を励ます言葉として用いられます。しかし、これは、もともとの文脈では、キリストの福音を知らない人たちにむけて語ることを促しているのではなく、教会内部の問題にかかわる戒めのことばです。教会が、本来の健全な教えをおろそかにし、真理から離れて作り話にそれていくことがあります(3~4節)。そのような「折が悪い」中でも、その教会に向かって御言葉を語りつづけることを促しているのです。
  使徒パウロは、福音とは異なる教えや考えが影響を及ぼしている諸教会にむけて、けんめいに真理の御言葉を語りつづけました。そのようなパウロが敬遠され、むしろ聞きたいことばを語ってくれる教師が喜ばれもてはやされることがありました。聞きたいことを語ってくれる教師が集められるのは、健全な教えがそこなわれるしるしと言えます。
  日本基督教団は、各教会がそれぞれ主体的に牧師を招く「招聘制」をとっています。各教会の主体性や責任を重んじたやりかたですが、「自分の都合のよいことを聞こうと、好き勝手に教師を集める」ことになる危険性があります。それを避けるためには、広い教会の交わりのなかで牧師を求め、また日常的に他教会との交わりを深めることが大切です。
  また、かつて日本の教会全体が、国家の圧迫のもと、「真理から耳をそむけ、作り話の方にそれていった」ことがあります。再びそのような「おりの悪い」時代がもたらされるのでしょうか。その中でも「福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい(5節)」と促されています。福音宣教の務めは、プロテスタント教会では、牧師だけでなく信徒それぞれに担うべき務めとされています。いま、心してこの促しを聞きましょう。

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