カテゴリー「説教要旨」の記事

2019年5月18日 (土)

5月12日「心の目」

こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。 (エフェソの信徒への手紙1章15~19節)

 芸術家やこどもたちは、目に見える表面的なものの奥に、それを超えたものを見てとる感性を備えています。「心の目」といっていいでしょう。『星の王子さま』に登場するキツネは、王子さまに「かんじんなものは目に見えない」と教えました。「かんじんなもの」とは「真実」であり、「神」ともいえます。
 聖書の神は、見られることを拒む方です。人間によって表面的に、浅はかに理解されることを拒むのです。神を知るには、「かんじんなもの」を見る感性、「心の目」が必要なのです。
 17~18節は、神を深く知るために心の目が開かれるよう祈っています。心の目が開かれると、「どのような希望が与えられているか」「受け継ぐものがどれほど栄光に輝いているか」「神の力がどれほど大きいか」を悟るようになります(18~19節)。今見えている現実、困難や絶望的状況の奥に、神の国の輝き、現実を超える神の力を見て、希望を見出すことができるのです。
 2月に召天された台湾の高俊明牧師は、弾圧の獄中で「サボテンと毛虫」という詩を書きました。とげだらけのサボテンに花が咲き、ぞっとする毛虫が蝶になるように、厳しい現実を超える希望をもたらす神の力を見たのです。
 神の力の大きさは、キリストを死者の中から復活させ(20~21節)、そのキリストを教会に与えて教会をキリストの体、キリストが満ちる場となさいました(22~23節)。わたしたちは、心の目が開かれるとき、復活をもたらす神の力を信じ、そして教会にキリストを見出すのです。
 預言者イザヤは、心の目によって、神の衣のすそが神殿いっぱいに広がっているのを見ました(イザヤ6:1)。わたしたちも、心の目が開かれる時、わたしたち貧しい人間の現実を超える神の力によって、この教会いっぱいにキリストが満ちているのを知るのです。

2019年5月11日 (土)

5月5日「祝福と讃美」

わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。(エフェソの信徒への手紙1章3~7節)

『エフェソの信徒への手紙』の冒頭、挨拶に続いて神をたたえることばが記されます。3~14節は原文では一つの文で、「たたえられますように」という語から始まっています。原語では「エウロゲオー」ですが、これは「よいことばを言う」という意味で、人が神をたたえる「賛美」だけでなく、神から人への「祝福」、さらには名詞形で「贈り物」の意味でも用いられます。3節後半を直訳すると「天のあらゆる霊的な祝福(贈り物)で祝福する」となります。つまり、3節では「エウロゲオー」という語を重ねて、神と人とが「よいことば」をかわしあう、幸いなよい関係を描いているのです。
 その「祝福」「贈り物」とは、具体的には「神がわたしたちをご自分の子にしようと選び、定めてくださった(4~5節)」ということです。これは、「わたしたちキリスト者は選ばれた存在だ」といった優越感を表しているのではありません。他の人と何も違わないのに、なぜかわたしたちはキリストにつながり、教会に加わり、信仰の道を歩むようになりました。それはわたしたちが選んだのではなく、なぜか神がそう定めたとしかいいようのない人生のふしぎです。わたしたちはそれを神の祝福、贈り物とうけとめて神をたたえるのです。
 さて、6節にも「たたえる」とありますが、これは原語では「エウロゲオー」とは別の語です。同じ語が12節・16節にもあり、「神の栄光をたたえるため」という句が繰り返されています。よく読むと、いずれも「栄光をたたえるために」として、約束された神の御国をうけつぐ希望を語っています。
 わたしたちは、なぜかキリストによって神と結ばれ、教会に集い、神の子としての将来の希望を与えられました。今はわたしたちは個人的にも、また教会も、まだまだ問題を多く抱えています。しかし、将来の希望を信じ、神の栄光をたたえるに至る道をたどっているのです。 
 

2019年5月 4日 (土)

4月28日 「成長する体」

こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。 (エフェソ4章12~16節)
 

 2004年度、15節の前半にもとづいて「語り合う」と教会の年度主題を掲げました。今年度は同じ15節の後半から「成長する体」と掲げたいと思います。
 使徒パウロは、教会という共同体を体になぞらえ、「体にはさまざまな部分があるように、教会もいろいろな者たちがみな結びあってひとつの生きた体となる」と教えました(ローマ12:4以下、コリントⅠ12:12以下)。16節でも同じことを述べていますが、ここにはさらに、その体が「成長する」ということが加えられています。そして、キリストの体の成長とは、教会共同体が「愛によって作り上げられていく」ことと言いかえられています。
 高齢化が進み、教会の礼拝出席者が減ってきています。成長どころか縮小しているようです。しかしその中で、互いに気遣い、訪ね、祈りあう愛の交わりはかえって深まっています。それは教会の「成長」と言えるでしょう。これからいっそう、「あらゆる節々が補い合って、しっかり組み合わされ、結びあわされて、各々の部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって作り上げられていく」(16節)ことを心にとめて歩んでいきましょう。
 さて、またこの「成長」は、「成熟した人間」(13節)「未熟な者」(14節)という語を用いてもあらわされています。
 「未熟な者(こども)」とは、その時その時の誤った教えにふりまわされるような状態です。教会は、いまこの時代の風に惑わされることなく、しっかり真理に立つことができるよう成長しなければなりません。
 教会が「成熟した人間(おとな)」に成長するということは、教会に「キリストが満ちる」ことと言えるでしょう(13節)。時代に流されずに真理に立ち、互いに補い合い組み合わさって、愛によって共同体が作られていくように、キリストに向かって、キリストが満ちるまでの成長をめざしましょう。
 

2019年4月27日 (土)

4月21日「傷の痛み」 イースター礼拝

十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」 (ヨハネ20章24~29節)

 主イエスの復活を容易に信じなかったトマスは、うたがい深いひねくれた人物と思われがちです。しかし、ヨハネ福音書の他の場面からは、むしろ純真でまっすぐな性格がうかがえます。危険な道に向かう主イエスと共に死ぬ覚悟を表明したり(11:16)、主イエスの行く道について尋ねたり(14:5)しています。トマスは、どこまでも主イエスについて道を歩んでいきたいと、心から願っていたのです。
 それなのに、けっきょく、主イエスの道をたどることはできませんでした。主イエスはひとり十字架におもむき、トマスはついて行くことができなかったのです。主イエスが十字架でこうむった手とわき腹の深い傷は、トマスにとって、主に従っていけなかった自分自身の弱さ、情けなさ、罪のしるしでした。その罪の痛みを誰よりも鋭く感じていたために、主イエスがよみがえったと喜ぶ他の弟子たちに対し、どなりつけるように「わたしは信じない」と言い張ったのでしょう。
 けれども、弟子たちに傷を示したとき、主イエスはくりかえし「あなたがたに平和があるように」と告げています(19~21節)。この主のことばには、傷をもたらした痛みを癒す力、罪を赦す力がありました。だからこそ弟子たちは、罪のしるしの傷をつきつけられながら、なお喜ぶことができたのです。
 トマスもまた、「平和があるように」という赦しのことばを聞きました(26節)。そのみことばの力によって、傷を負わせた痛みを癒され、罪の赦しを知ったトマスは「わたしの主、わたしの神よ」と主をたたえたのです。
 赦しをもたらした主イエスは、こんどは弟子たちが赦しを携えていくように促し、遣わします(21~23節)。今、わたしたちも主のみことばを聞きます。傷の痛みを抱えていても、復活の主の赦しを信じ、携え、遣わされていきましょう。

2019年4月19日 (金)

4月14日「わたしである」

こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」(ヨハネ18章1~11節)  
 主イエスの逮捕という衝撃の場面を、ヨハネ福音書は他の福音書とは違う語り口で描いています。
 裏切り者のユダは、敵の手の者たちを案内してきましたが、この場面をよく読むと、それ以上なにもしていません。ヨハネ福音書は、彼の裏切りを主イエスはあらかじめ知っており、それどころか彼の決断は主イエス自身の働きかけによるものであったように記しています(13章21、27節)。主イエスの十字架という決定的に重大なできごとをくわだて、成し遂げたのは、ユダではないのです。ユダヤの権力者たちでもローマ総督ピラトでもなく、ほかならぬ主イエスご自身が、父なる神の御心に従って成し遂げたみわざなのです。
 主イエスは敵を前に、「わたしである」と名のります。これは、モーセに対し、ご自身を「わたしはある」と名乗られた、神の名のりと同じです(出エジプト3:14)。主イエスは、捕らえられる場面で圧倒的な神としてのご自身を示しています(6節)。十字架の苦難は、神である主イエス・キリストご自身の意志であり、計画であり、みわざであることを示しているのです。
 主イエスが「わたしである」と名乗ったのはまた、弟子たちをかばい守り救うためでもありました(8~9節)。十字架の主イエス・キリストは、ご自身に属する者を、かばい守り救う神なのです。
 「わたしである」「わたしはある」とはまた、「わたしはいる」と訳してもかまいません。弟子たちには思いもよらなかった裏切りと苦難、恐怖と絶望のできごとのただなかに、神としてわたしたちをかばい守る主イエス・キリストが「わたしはいる」と宣言されているのです。
苦難のなかで、「わたしである」「わたしはある」「わたしはいる」と宣言される主イエス・キリストを見あげましょう。

2019年4月13日 (土)

4月7日「わたしの名によって」

 わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。       (ヨハネ16章25~28節)


 教会生活を始めたころ、祈りのことばをどう整えたらよいか、戸惑ったのではないでしょうか。はじめに神への呼びかけのことばがあり、讃美・罪の告白・願い・とりなし・感謝などを述べたあと、最後に「主イエス・キリストの御名によって祈ります」と言います。これはどういう意味でしょうか。
 主イエスは、捕らえられて十字架にかけられることになる直前、弟子たちに「その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる」(26節)と告げました。「その日」とは、十字架とそして復活が成し遂げられたときを意味します。それまでは、弟子たちが神に願い祈るのではなく、主イエスが弟子たちと生活を共にしながら彼らのために願い祈ってきました(24、26節)。しかし、主イエスの復活と昇天の後、地上に残された弟子たちは、主イエスの名によって、父なる神に直接願い祈るようになるというのです。
 ところで、「わたしの名によって」(26節)を直訳すると「わたしの名の中で」となります。「主イエス・キリストの御名の中で祈ります」とは、祈るわたしが主イエス・キリストに所属することの表明です。わたしたちは、キリストに属する者たちの群の中で祈っているのです。関田寛雄牧師は「個人は常に神の民の一員として祈るのであって、祈りにおいて彼は歴史の主のみわざに参与する」と記しています。
 主イエスは、弟子たちの群に対して「あなたがたはわたしの名によって願うことになる」と告げました。「あなたがた」つまり弟子たちの群、教会は、キリストの名によって祈る共同体、祈りの共同体となりました。わたしたちは、ひとりで祈るときでも、キリストの名のもとにある祈りの共同体の中で祈っているのです。わたしの祈りがどんなにつたなくとも、それはキリストの体である教会の祈りであり、キリストがご自身の祈りとしてくださるでしょう。
 

 

2019年3月30日 (土)

3月24日 「道、真理、命」

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」(ヨハネ14章1~7節)

 主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われました。このことばについて考えてみましょう。
 「道」は、単なる通り道ではありません。古代の国家は領域の支配のために道路網を整備しました。高度な技術と強大な権力で建設された道路は、地方の人々にとってははるかかなたの都から自分たちのところにまで伸びてきた、都の延長線であり、この道に立つことは、見たこともない遠くの都に立つこととつながっていたのです。
主イエスは、はるかかなたの父なる神に通じる道であり、それは神ご自身の延長線としてわたしたちのところにまで来てくださった神そのものです。わたしたちは、主イエス・キリストに触れ、出会い、導かれるとき、神ご自身と出会い、ふれあい、導かれるのです。
「真理」を辞書でひくと「ほんとうのこと」とありました。「ほんとうのこと」ではいないこと、「ほんとうではないこと」がはびこり、力をふるうことがあります。戦争中、「ほんとうではないこと」のために人生を曲げられ、損なわれた多くの人々が、戦後、生きるよりどころとなりうる「ほんとうのこと」を真剣に求めました。「真理」とは、生きる支え、よりどころであり、その意味で「命」に通じます。「真理」「命」は、「生きるよりどころ」「生きる力」のことと言えます。
そう考えると、「道」とは「生き方」ととらえることもできます。こういう意味の「道」は、日本で昔からいう「華道」「茶道」「武道」などの「道」に通じます。たんなる技術や知識を超えて、どう生きるかということを追求するのが「道」つまり「生き方」です。
キリストは「わたしは道であり、真理であり、命である」と告げます。キリストという生き方を生きるように励まされ、促されているのです。

2019年3月23日 (土)

3月17日 「イエスの栄光」

このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。
「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」
彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。
「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」
イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。
(ヨハネ12章37~41節)

 主イエスがエルサレムに到着すると、群衆は王者を迎えるように盛大に歓迎しました(12~13節)。主イエスも、「栄光を受けるときが来た」(23節)と告げます。しかし、その直後、主イエスは群衆の前から姿を消してしまいます(36節)。群衆は「王者の栄光を受けるためにエルサレムに来られたのではなかったのか」と戸惑い、疑うのです。
 ヨハネ福音書は、ここでイザヤ書を引用して説明します。38節の句は、イザヤ書53章の冒頭の一句ですが、当時の読者は、これでイザヤ書53章全体を思い起こしたはずです。
 イザヤ書53章は、ある人物のことを語っています。「彼」のことを、人々は軽蔑し、見捨て、「彼」は苦しみ、打ち砕かれ、黙って殺されていきました。しかし、「彼」には罪はなく、人々が道を誤った罪を「彼」が背負い、みんなの身代わりとなって死んだのでした。「彼」は、それを自分の使命と自覚して理不尽な死に赴き、人々はそうとは知らなかったけれども「彼」の命と引き換えに生きながらえた、と述べています。
 主イエスが十字架で死んだ後、弟子たちは、このイザヤ書に記された「彼」こそ主イエスのことだったのだと信じました。主イエスの死は、人々の救いのためのみわざであったのだと理解したのです。
 ヨハネ福音書はそれを「イエスの栄光」と表現します。この栄光のためにこそ、主イエスはエルサレムに来られました。それを理解しないとき、主イエスの姿は見えなくなってしまいます。わたしたちは、この「イエスの栄光」をみることができるでしょうか。
 栄光を受ける主イエスは、またこの栄光に仕え、従うように促しました(23~26節)。わたしたちはイエスの栄光にあずかるものとなるでしょうか。


2019年3月16日 (土)

3月10日 「主よ、来て、ご覧ください」 東日本大震災記念礼拝

マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。
               (ヨハネ11章32~37節)

 主イエスの親しい友ラザロが死んでしまいました。葬り終わった後にようやく現れた主イエスに対し、ラザロの姉妹マルタとマリアは口々に「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」(21節、32節)と訴えます。助けてくれると信じた主イエスへの期待がむなしく終わった悲嘆と苦悩のことばは、主イエスの心に刺さったに違いありません。主が「憤りを覚え、興奮して」(33節)とは、意味がとりにくい語ですが、「息を荒げ、心ふるわせる」という、感情をあらわにされる主の姿をいうのでしょう。
 人々は、「主よ、来て、ご覧ください」と、村から離れた墓へのさびしい道を案内します。死の厳しい現実を、あなたが来てくださらなかったばっかりにもたらされた痛ましい現実を、しっかり見てください、という人々の思いに、涙を流し、悲しみの感情を隠さない主イエスです。
 東日本大震災で、多くの命が失われました。「主よ、あなたがいたのなら、こんなことにはならなかったでしょうに」という悲嘆と苦悩を、主は受け止めてくださるでしょうか。被災地の現実は今なお厳しいままです。「主よ、来て、ご覧ください」とも声をあげずにいられません。
 ラザロの墓に来た主イエスは、墓の入り口の石を取り除けるよう命じました(39節)。人々の暮らす世界と、横たわるラザロとを隔てる大きな重い石が除かれたとき、主は「ラザロ、出てきなさい」と呼びかけラザロは新しく生きる者となったのでした。
 震災から8年たとうとしています。さまざまな支援活動が終わり、被災地の人々と遠ざかっていってしまうのでしょうか。しかし、主に促されて、なお隔てをとりのぞくようつとめるとき、主は、新しい命、新しく生きる力をもたらしてくださるのかもしれません。

2019年3月 9日 (土)

3月3日 「誰にも奪われない」

わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。(ヨハネ10章27~28節)

 幼いころ教会に通い、その後事情で何十年も教会から隔てられていた方が、高齢になってまた教会に通えるようになり、喜びあふれて礼拝をささげていました。「彼らは決して滅びず、誰も彼らを私の手から奪うことはできない」との主イエス・キリストのみことばのとおりです。
 ヨハネ福音書が書かれた頃、教会は迫害や苦難に直面していました。教会から引き離され、遠ざかる人々も少なくなかったでしょう。ヨハネ福音書の最初の読者たちは、そうした状況の中で「彼らは決して滅びず、誰も彼らを私の手から奪うことはできない」との主のことばを力強い励ましとして、また慰めとして聞いたのです。
 主は、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(15:16)とも言います。私たち自身の意志や決断、また弱さや困難な状況にかかわらず、主イエス・キリストご自身が私たちを選び、御手のうちに守っていてくださるのです。 
 今、わたしたちの教会でも、教会から引き離され遠ざかっている人々が増えています。高齢となり、体の衰えや生活の変化のために、礼拝に連なるのが難しくなっているのです。長く入院し、もはや会話もままならない方々もいます。しかし、たとえ自分では祈ることも聖書を聞くこともできないとしても、この人々が滅びることなく、ご自身の手から奪われることはないと、主は宣言してくださるのです。
 また、よこしまな力が、私たちを主の御手から奪おうとすることもあります。これから天皇の代替わりが予定されています。即位に伴って神道儀式が盛大に行われ、もてはやされることでしょう。わたしたちの信仰が脅かされるとしても、主の御手から私たちを奪い取ることはできないのです。 

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