カテゴリー「説教要旨」の記事

2019年3月23日 (土)

3月17日 「イエスの栄光」

このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。
「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」
彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。
「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」
イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。
(ヨハネ12章37~41節)

 主イエスがエルサレムに到着すると、群衆は王者を迎えるように盛大に歓迎しました(12~13節)。主イエスも、「栄光を受けるときが来た」(23節)と告げます。しかし、その直後、主イエスは群衆の前から姿を消してしまいます(36節)。群衆は「王者の栄光を受けるためにエルサレムに来られたのではなかったのか」と戸惑い、疑うのです。
 ヨハネ福音書は、ここでイザヤ書を引用して説明します。38節の句は、イザヤ書53章の冒頭の一句ですが、当時の読者は、これでイザヤ書53章全体を思い起こしたはずです。
 イザヤ書53章は、ある人物のことを語っています。「彼」のことを、人々は軽蔑し、見捨て、「彼」は苦しみ、打ち砕かれ、黙って殺されていきました。しかし、「彼」には罪はなく、人々が道を誤った罪を「彼」が背負い、みんなの身代わりとなって死んだのでした。「彼」は、それを自分の使命と自覚して理不尽な死に赴き、人々はそうとは知らなかったけれども「彼」の命と引き換えに生きながらえた、と述べています。
 主イエスが十字架で死んだ後、弟子たちは、このイザヤ書に記された「彼」こそ主イエスのことだったのだと信じました。主イエスの死は、人々の救いのためのみわざであったのだと理解したのです。
 ヨハネ福音書はそれを「イエスの栄光」と表現します。この栄光のためにこそ、主イエスはエルサレムに来られました。それを理解しないとき、主イエスの姿は見えなくなってしまいます。わたしたちは、この「イエスの栄光」をみることができるでしょうか。
 栄光を受ける主イエスは、またこの栄光に仕え、従うように促しました(23~26節)。わたしたちはイエスの栄光にあずかるものとなるでしょうか。


2019年3月16日 (土)

3月10日 「主よ、来て、ご覧ください」 東日本大震災記念礼拝

マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。
               (ヨハネ11章32~37節)

 主イエスの親しい友ラザロが死んでしまいました。葬り終わった後にようやく現れた主イエスに対し、ラザロの姉妹マルタとマリアは口々に「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」(21節、32節)と訴えます。助けてくれると信じた主イエスへの期待がむなしく終わった悲嘆と苦悩のことばは、主イエスの心に刺さったに違いありません。主が「憤りを覚え、興奮して」(33節)とは、意味がとりにくい語ですが、「息を荒げ、心ふるわせる」という、感情をあらわにされる主の姿をいうのでしょう。
 人々は、「主よ、来て、ご覧ください」と、村から離れた墓へのさびしい道を案内します。死の厳しい現実を、あなたが来てくださらなかったばっかりにもたらされた痛ましい現実を、しっかり見てください、という人々の思いに、涙を流し、悲しみの感情を隠さない主イエスです。
 東日本大震災で、多くの命が失われました。「主よ、あなたがいたのなら、こんなことにはならなかったでしょうに」という悲嘆と苦悩を、主は受け止めてくださるでしょうか。被災地の現実は今なお厳しいままです。「主よ、来て、ご覧ください」とも声をあげずにいられません。
 ラザロの墓に来た主イエスは、墓の入り口の石を取り除けるよう命じました(39節)。人々の暮らす世界と、横たわるラザロとを隔てる大きな重い石が除かれたとき、主は「ラザロ、出てきなさい」と呼びかけラザロは新しく生きる者となったのでした。
 震災から8年たとうとしています。さまざまな支援活動が終わり、被災地の人々と遠ざかっていってしまうのでしょうか。しかし、主に促されて、なお隔てをとりのぞくようつとめるとき、主は、新しい命、新しく生きる力をもたらしてくださるのかもしれません。

2019年3月 9日 (土)

3月3日 「誰にも奪われない」

わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。(ヨハネ10章27~28節)

 幼いころ教会に通い、その後事情で何十年も教会から隔てられていた方が、高齢になってまた教会に通えるようになり、喜びあふれて礼拝をささげていました。「彼らは決して滅びず、誰も彼らを私の手から奪うことはできない」との主イエス・キリストのみことばのとおりです。
 ヨハネ福音書が書かれた頃、教会は迫害や苦難に直面していました。教会から引き離され、遠ざかる人々も少なくなかったでしょう。ヨハネ福音書の最初の読者たちは、そうした状況の中で「彼らは決して滅びず、誰も彼らを私の手から奪うことはできない」との主のことばを力強い励ましとして、また慰めとして聞いたのです。
 主は、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(15:16)とも言います。私たち自身の意志や決断、また弱さや困難な状況にかかわらず、主イエス・キリストご自身が私たちを選び、御手のうちに守っていてくださるのです。 
 今、わたしたちの教会でも、教会から引き離され遠ざかっている人々が増えています。高齢となり、体の衰えや生活の変化のために、礼拝に連なるのが難しくなっているのです。長く入院し、もはや会話もままならない方々もいます。しかし、たとえ自分では祈ることも聖書を聞くこともできないとしても、この人々が滅びることなく、ご自身の手から奪われることはないと、主は宣言してくださるのです。
 また、よこしまな力が、私たちを主の御手から奪おうとすることもあります。これから天皇の代替わりが予定されています。即位に伴って神道儀式が盛大に行われ、もてはやされることでしょう。わたしたちの信仰が脅かされるとしても、主の御手から私たちを奪い取ることはできないのです。 

2019年3月 2日 (土)

2月24日「追い出される」

彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」 彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。 (ヨハネ9章30~34節) 
 生まれつき目の見えない人を、弟子たちは、罪の結果だと決めつけます(9:2)。当時、障がいや病は罪に対する神の裁きと考えられていました。障がい者や病人には、体の苦しみやつらさだけでなく、「罪人」という偏見や差別が加えられ、一般の社会生活から隔てられてしまっていました。
 主イエスは、この人を見えるようにしたのですが、ファリサイ派の人々は、主イエスが神からの方だと認めようとしません。かえって主イエスを認める者を会堂から追放しようとします。会堂は、ユダヤ人の生活と信仰を支える、共同体の中心です。会堂から追放されるとは、神との交わりからも人との交わりからもしりぞけられることでした。
 ファリサイ派の尋問に対し、見えるようにされた人は、主イエスのことを「神から来られた方」と言い表します。それによって、外に追い出されてしまいますが、かえって主を信ずる信仰へと導かれるのです。
ヨハネ福音書が書かれた当時、教会は、厳しい迫害にさらされていました。追い出されても主イエスへの信仰を表明したこの人の姿は、ヨハネ福音書の最初の読者たちを励ましたでしょう。
 しかし、考えてみれば、この人は始めから「追い出され」ていた人ではなかったでしょうか。生まれつき見えなかったために、罪人とみなされ、社会から追いやられていたのです。しかし主イエスはそこにおいでになり、この人に働きかけ、ついに信仰へ導きました。追い出された者が、あるいは追い出されたところでこそ、主イエス・キリストに出会うのです。
 追い出され、取り残され、交わりから遠ざけられているような思いを抱えているでしょうか。けれども、その中でこそ、「あなたは人の子を信じるか」との主イエスのよびかけを聞くのかもしれません。

2019年2月 2日 (土)

1月27日 「キリストの証」 


「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。  (ヨハネ5章31~36節) 

 今日は「新発寒教会の宣教の取り組みに学ぶ」として一日修養会を行います。昨年秋の札幌地区大会で地区内の4つの教会から、それぞれの活動について聞きました。いずれも教会員20~30名の小規模教会ですが、困難や不足にもかかわらず意欲をもって教会の使命と課題を担っていることに励まされました。とくに新発寒教会は、2年前に新会堂を建築して以来、次々にユニークな取り組みを元気に進めています。
教会にとって主イエス・キリストを宣べ伝えるのは根本の使命ですが、時代や地域、個々の教会の賜物や条件によって具体的な方法や形はさまざまですが、今、この地でわたしたちが何をなすべきか考えましょう。
 さて、ヨハネ福音書では、キリストを宣べ伝えることを「証しする」と表現します。「証しする」とは、もともと法廷で人やことがらについて証言することです。とくに、その人物が何者であるか証明し、あるいは信用を保証する意味もあります。今日の箇所も、主イエスが何者であるか、信用できるかどうかをめぐってのことばです。
 主イエスは、ご自身について証明するのは神ご自身であり、人からの保証は不要だ、ときっぱり言います。ところがいっぽう、「ヨハネの証」つまり人間の証も、「あなたたちが救われるために」用いるというのです。
「証しする マルチュレオー」という語が英語の「martyr 殉教者」の語源です。「証しする」とは、ことばで述べることにとどまらず、命をかけて、つまり、自分の生き方、あり方を通してなされることです。わたしたち一人ひとり、そして、教会が、どのように生きているかが「証」です。
もとより、主イエスを証しするのは本来的には神ご自身です。それでも主はわたしたちのつたない証をも用いてくださるでしょう。
 

2019年1月12日 (土)

1月6日「召使は知っていた」

 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。(ヨハネ2章1~11節) 

 今日は、教会の暦では「公現日」です。公現日に読まれる聖書箇所のひとつが「カナでの婚礼」の場面です。
 ガリラヤのカナで婚礼がありました。主イエスの母マリアにゆかりの家だったようです。その婚礼でぶどう酒が足りなくなるという失態がありましたが、主イエスが水をぶどう酒に変えたというのです。このできごとの意味を、召使の立場から考えてみましょう。
 召使たちは婚礼の裏方です。ぶどう酒が足りないと、まっさきに気づいたのは彼らだったでしょう。急いでマリアに相談すると、主イエスのことばを待ってそれに従うようにと、待機を命じられました。やがて主イエスが来られ、水がめに水を満たすようにと指示します。水を井戸から汲んできて6つの大きな水がめに満たすのはけっして軽い仕事ではありません。足りないのはぶどう酒なのに、こんなことをして何の意味があるか、と疑ったでしょう。しかし、それを世話役のところにもっていくとよいぶどう酒に変わっていました。それが主のみわざであることは、召使たちだけが知ることでした。
 婚礼は神の国を現します。神に招かれて神との永遠の絆に結ばれ、喜びと幸いがもたらされるはずだったのに、旧来の信仰のありかたではそれが満たされず、主イエス・キリストによってはじめてそれが完成されるのです。
 召使たちは、その主のみわざの奉仕者です。このままでは満たされないと気づき、主を待ち望み、そしてそのみことばに従って、徒労とも思えるわざを担うのです。しかし、その重くつらい働きは、主によって祝福へと変えられます。召使たち、奉仕者である教会は、そのことを知ることになるのです。新しい年、主に従い、そのみわざに携わっていきましょう。

2019年1月 5日 (土)

12月30日「永遠の命」

 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。 (ヨハネ3章16~21節)
 
 16節は、クリスマスの意味を端的に示しています。こどもさんびか49「かみさまはそのひとりごを」は、この句をもとに作られました。作詞者の由木康牧師は、「永遠の命を得るため」という聖書のことばから「新しい命を受けて いつまでも生きるためです」と書きました。「永遠の命」とは、「いつまでも生きる」という時間的なことだけではなく、「新しい命を受ける」こと、命の質が変わることを含んでいるのです。
 ヨハネ福音書5:24には、「永遠の命を得、死から命へ移っている」とあります。「移っている」は現在完了形で記されています。永遠の命とは、将来のことではなく、今、ここで、起こることです。今を生きる命が、死で終わるようなものではなくなっている、ということです。
 山浦玄嗣さんは、3章16節の「永遠の命」という句を、「いつでも明るくいきいきと生きる力」と訳しています。御子を信じる者が、病に脅かされ、死に直面しようとも、それに屈服することなく、なお明るくいきいきと生きる、そういう不思議があります。
 さて、永遠の命は「裁かれない」ことと関連します(5:24、3:17~18)。山浦さんは、3:18の「裁かれない」という語を、「善いも悪しいも言われない」と訳しています。神は、御子に頼る者を、いい悪いを言わず無条件で受け入れてくださる、というのです。そのように信じるとき、わたしたちはどんなときもいきいきと生きる力を与えられるのです。
 今年を終えようとしています。悔やまれること、至らなかったことが数々あります。それでも、神は御子を頼る者を無条件で受け入れてくださいます。その信頼が、新しい日々をいきいきと生きる力を与えてくれるのです。

2018年12月29日 (土)

12月23日「ほんとうの光」クリスマス礼拝

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。(ヨハネ1章1~9節)
 
 御子キリストの到来を、ヨハネ福音書は「光は暗闇の中で輝いている」「その光はまことの光で、世に来てすべての人を照らす」と表現します。どんな光を思いうかべるでしょうか。
 札幌出身の藤原牧子牧師が、60年以上前のクリスマスの思い出を「馬そりで廻ったキャロリング」というエッセーに記しています。クリスマスイブの真夜中に、若者たちは馬そりに乗ってキャロリングに出発します。夜は深く静まり返り、はるかかなたまで雪景色が続いています。信徒の家を讃美歌を歌いに回っているうちに、朝となり、朝の光が雪景色を曙色に染めていきます。太陽の光に照らされるとき、あたりの景色が全く違って輝きだすのです。
 教会では、古くは25日のクリスマスの前の晩から集まって、朝を待ちながら一晩中礼拝を献げていました。やがて朝日がのぼり、圧倒的な光に包まれてあたりが一変して輝く中、クリスマスの喜びの礼拝をささげたのです。
 ヨハネ福音書は、あたりを一変させるキリストを「ほんとうの光」と表現します。そしてそれは、「言のうち」にある命であると述べています。
 かつて、フィリピンの神学校を訪れたことがあります。当時、支配者たちが民衆を暴力的に支配し、貧しい人たちが命をも脅かされる状況でした。貧しい神学生たちは、卒業すると、聖書一冊と授業を書き留めたノートだけを携えて人々のもとに牧師として赴任し、命の危険の中で聖書を共に読んで、生きる希望を見出そうとしていました。聖書の言の内に、死の恐れをも乗り越えさせる命があるのです。それこそがほんとうの光です。
 このほんとうの光、キリストは、私たちに生きる希望と力を与え、日々をも一変させて命を輝かせます。この光を、わたしたちの内に迎えましょう。

2018年12月22日 (土)

12月16日 「席を譲る」

彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」         ()ヨハネ3章26~30節)

 洗礼者ヨハネは、一時もっとも人々を引き付けた宗教家でした。けれども新たに主イエスが現れると、ヨハネは自分は「先に遣わされた者」だと重ねて表明するのです。
 「前に遣わされた者」とは、要人が訪れる前にあらかじめ遣わされて、準備を促す「先ぶれ」のことです。ほんとうに迎えるべき重要な方のために、必要な準備を整えさせるのです。洗礼者ヨハネは、主イエスに先立って、人々の心を神に向けさせ、悔い改めを促し、洗礼を授けました。それが人々が主イエスの働きを受け入れる備えとなったのです。
 ヨハネはまた、先ぶれとしての自分の役割と心境を、結婚式の介添え人になぞらえます。当時、結婚式にあたっては、花婿の信頼する友人が婚姻を仕切りました。縁談をととのえ、婚宴の手配をし、当日は花嫁の家に先に到着して準備をし、また花嫁を守ります。いよいよ花婿が到着すると、その声を確かめて家に迎え入れます。それからいよいよ宴となりますが、その時には介添え人の役割はもう終わっています。ヨハネは、自分の役割はそういうものだというのです。
 ほんとうの主役が現れるとき、自分は喜んでわきにしりぞく、そういうときがあるのではないでしょうか。
 そのことをヨハネは、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」と言います。直訳すると、「あの方は必ず伸びていき、わたしは小さくならねばならない」となります。キリストがますます伸びていくとき、喜んでわたしは小さいものとなっていくのです。
 キリストを迎えるとは、キリストに自分の席を譲ることです。私の思い、私の願い、私自身は小さくされ、かわってキリストの支配、力が、伸び、広がっていくことを、喜びましょう。

2018年12月 8日 (土)

12月2日 「力の源」

民は皆、水の門の前にある広場に集まって一人の人のようになった。彼らは書記官エズラに主がイスラエルに授けられたモーセの律法の書を持って来るように求めた。祭司エズラは律法を会衆の前に持って来た。そこには、男も女も、聞いて理解することのできる年齢に達した者は皆いた。第七の月の一日のことであった。彼は水の門の前にある広場に居並ぶ男女、理解することのできる年齢に達した者に向かって、夜明けから正午までそれを読み上げた。民は皆、その律法の書に耳を傾けた。(ネヘミヤ8章1~3節)
 
 バビロン捕囚から解放されて帰ってきたユダの民は、困難と妨害を乗り越えてようやく神殿を再建し、エルサレムの城壁を修復しました。しかし、かつてのような独立の回復は不可能です。彼らは、モーセの律法に基づく宗教共同体として、歴史を歩んでいくこととなります。ネヘミヤ記8章は、そのような共同体としての新たな出発となる、重要な場面です。
 広場に集まった人々に、エズラが律法を読み聞かせ、レビ人たちが解説しました。律法は単なる宗教上の掟ではありません。かつてエジプトで奴隷としてばらばらだった人々が、神と契約を結び、信仰によってひとつにまとまり、神のみこころに基づく共同体、神の民を形作っていくための定めです。神のみこころに従う神の民、共同体を形作ることが律法の目的なのです。
 その律法を再び示されて、民は泣きました(8節)。かつて、この律法に基づいて神の民が形作られるはずだったのに、自分たちはその歩みを誤って、神のみこころにそむき続け、ついに国は滅ぼされ、捕囚の苦しみと再建の労苦を負うに至ってしまったのです。その罪と、失ったものの大きさを思い、後悔と嘆きの涙を流したのでしょう。
 しかし、ネヘミヤやエズラは、「今日は主に献げられた聖なる日」とよびかけ、喜び祝うよう促します(9~10節)。自分たちの罪にまさる神のみわざに心を向け、このような罪深い我々と、それでも共にいてくださる神の愛とあわれみを感謝し喜び祝うことが、神の民として新しく歩みだす「力の源」となるのです。
 それからはるか後、神は御子を送り、新しい神の民の形成を導きました。御子を迎えるクリスマスを、主に献げられた日として喜び祝いましょう。それが、新しい神の民、教会の歩みの「力の源」となるでしょう。
 
 
  
 

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