カテゴリー「説教要旨」の記事

2017年7月15日 (土)

7月9日 「世代をこえて」

わたしは、昼も夜も祈りの中で絶えずあなたを思い起こし、先祖に倣い清い良心をもって仕えている神に、感謝しています。わたしは、あなたの涙を忘れることができず、ぜひあなたに会って、喜びで満たされたいと願っています。そして、あなたが抱いている純真な信仰を思い起こしています。その信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っていると、わたしは確信しています。(テモテ二1章3~5節)

 5節には手紙の受取人テモテの信仰のルーツが記されています。使徒言行録16章1~3節によれば、テモテの父はギリシア人でした。異邦人と結婚した母は、それでもテモテに聖書を教え(3:15)、信仰を伝えました。テモテは、キリスト教会の第2世代の最初のひとりといえるでしょう。
 信仰を、世代をこえて伝えていくことは大きな課題です。日本の教会は、明治以来、熱心に伝道してきましたが、信徒の家庭で信仰がなかなか受け継がれてこなかった現実があります。しばしば親の側に「信仰を押しつけてはいけない」というためらいが生じます。教会もまた、「信仰は、自分で理解して選び取っていくもの」という発想があったのではないでしょうか。そうして、こどもたちを教会の外にしかおいてこなかったのではないでしょうか。
 こどもたちをどう受けとめるかは、教会のありかたにかかわります。教会が、何かの働きや能力、学識とか抽象的な議論を求めるところならば、こどもたちの居場所はあまりありません。しかし、教会を、共に生き、暮らし、育っていく共同体と考えると、こどもたちは欠くことができない存在です。
 私自身、信徒の家庭で生まれ育った第2世代です。生まれたときから教会で育てられてきたことは幸いでした。「自分で選んだのではない」と悩んだこともありましたが、けっきょくそれを受け入れて洗礼を受けました。
幼児洗礼を受けている人もいます。幼児洗礼は、ただ、こどもへの祝福や親の信仰の証を意味するのではなく、教会がその子を受け入れ、覚え、その生涯のために祈りつづけるということです。幼児洗礼にかかわらず、こどもたちのために祈りつづけましょう。
 また、テモテの信仰は、地域の諸教会の交わりのなかではぐくまれたものでした(使徒16:2)。若い世代にかかわる地区・教区の働きを覚えましょう。

2017年7月 8日 (土)

7月2日 「御言葉の報酬」

よく指導している長老たち、特に御言葉と教えのために労苦している長老たちは二倍の報酬を受けるにふさわしい、と考えるべきです。聖書には、「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」と、また「働く者が報酬を受けるのは当然である」と書かれています。(テモテ一5章17~18節)

 教会の働きを担うつとめとして「長老」をおいている教会は今日でも多くあります。そうした教会では、牧師もまた「御言葉と教えのために労苦している長老」と考える伝統があります。彼らは「二倍の報酬がふさわしい」とあります。「報酬」は「尊敬」「敬意」の意味をもつ語で、文語訳聖書では、「・・・長老をひときわ尊ぶべき者とせよ」と訳しています。しかしまた、これにはあきらかに物質的・経済的報酬の意味も含まれています。
  18節は、コリント一9章を踏まえています。ここでパウロは、律法の規定と主イエスのことばを根拠として、御言葉のために労する者の生活を教会が支えるべきことをいっしょうけんめい説いているのです。
しかし、現実に、牧師の生活を支えるのは教会にとって重い課題です。牧師は清貧であるべきだとされて苦しんだ牧師や家族も少なくありません。北海教区は、牧師の生活を支えきれなかった「北海道特別開拓伝道」の痛ましい歴史への反省から、謝儀基準を設け、それを支えあう互助の仕組みを築いてきました。
 牧師の報酬は具体的にどれくらいがふさわしいのか、定めるのは容易ではありませんが、少しだけ「献金と研究」というぜいたくができればと願います。経費と時間を費やして聖書や信仰について学び続け、また教会や他の活動を支える献金ができることは牧師の喜びです。
 北部教会は、15年前の招聘の約束を守り、無理をしてでも牧師を支え続けています。それは牧師個人への評価に基づくのではなく、御言葉そのものを「ひときわ尊ぶ」姿勢にほかなりません。その姿勢そのものが、牧師にとっては何よりの報酬です。感謝と共に、いま諸教会で労している牧師たちにも、ひときわの報酬が備えられるよう願うのです。

2017年7月 1日 (土)

6月25日 「食い荒らされた土地」 野外礼拝

大地よ、恐れるな、喜び躍れ。主は偉大な御業を成し遂げられた。
野の獣よ、恐れるな。荒れ野の草地は緑となり
木は実を結び
いちじくとぶどうは豊かな実りをもたらす。
シオンの子らよ。あなたたちの神なる主によって喜び躍れ。
主はあなたたちを救うために
秋の雨を与えて豊かに降らせてくださる。
元のように、秋の雨と春の雨をお与えになる。
麦打ち場は穀物に満ち
搾り場は新しい酒と油に溢れる。
わたしがお前たちに送った大軍
すなわち、かみ食らういなご
移住するいなご、若いいなご
食い荒らすいなごの
食い荒らした幾年もの損害をわたしは償う。
(ヨエル書2章21~25節)

 1880(明治13)年、十勝で大発生したバッタの群れは日高山脈を超え、一部は北上してこのあたりまで襲いました。音をたてて雲のように群れが押し寄せた後には、農作物だけでなく植物は何も残りませんでした。土には大量の卵が産み付けられ、バッタの害は数年間続きました。手稲山口の「バッタ塚」がその苦難を伝えています。
 聖書では、エジプトを襲ったイナゴの災い(出エジプト記10章)が有名ですが、預言書のひとつヨエル書にも、イナゴの害が語られています。 
 ヨエル書2章には、イナゴの大群が襲うさまがリアルに描かれています。イナゴに食い荒らされると飢饉となり、人々の命も脅かされます。しかしヨエルは、主がイナゴを追い払い、食い荒らされた大地に再び豊かな緑を回復してくださると語りました(2:21~25)。明治の頃、バッタに襲われたこのあたりも、もはや緑が回復し、人々が穏やかに暮らす地になりました。
 けれども、ヨエルが語りたかったのは、じつはイナゴのことではないのかもしれません。2章では、イナゴの群れを軍隊になぞらえて描いているのですが、ほんとうは、イナゴの害にたとえて侵略者の軍隊のことを語っているのかもしれません。
 人々が穏やかに暮らす地を、イナゴのように食い荒らす異国の軍隊が襲うことがあります。今も、世界の多くの地が軍隊に荒らされています。沖縄では、戦争の基地を作るために森や海が荒らされています。また、不当な利益をむさぼるために食い荒らされている地もあります。利益をあげるために原発が建てられた地は、いま荒れ果てています。
 イナゴが襲ったように食い荒らされた地を、主はそれでも回復してくださるという希望を聞きましょう。

2017年6月24日 (土)

6月18日 「もうひとつの家族」

老人を叱ってはなりません。むしろ、自分の父親と思って諭しなさい。若い男は兄弟と思い、年老いた婦人は母親と思い、若い女性には常に清らかな心で姉妹と思って諭しなさい。身寄りのないやもめを大事にしてあげなさい。(テモテ一 5章1~3節)

 若い牧会者テモテは、年長の信徒との関係に苦労することがあったのでしょうか。1節に「老人を𠮟ってはなりません」とあります。「𠮟る」とは、「非難する」「きつくあたる」という意味で、厳しく対決する姿勢を示します。「父親と思って諭しなさい」の「諭す」は、「パラカレオー」という語です。聖書では、聖霊が、かばい、促し、導くことを表現するのにも使われています。よりそい、支える姿勢をあらわすといえるでしょう。
 私たちの教会でも、高齢に伴うさまざまな課題が目立つようになってきています。年配者に関わるとき、注意したり、𠮟ったり、とがめたりして対決するのではなく、よりそう姿勢が促されています。
 この手紙にはまた、当時の教会が具体的に高齢の仲間たちを支えていたことが記されています。「やもめを大事にしてあげなさい(3節)」とありますが、「大事にする」とは、尊重し敬う姿勢とともに、具体的に世話をして支えることも含んでいます。当時の教会は、身寄りのない、弱い立場の「やもめ」たちの生活の実際を支えることに取り組んでいたのです。
 教会は「神の家族」といわれます。ともするとそれは、ただ精神的な意味に留まってしまいがちですが、最初の教会は、実際の家族のように経済生活をも支えようとしていました。その点では、今の私たちの先を行っているといえます。教会の交わりは、実際の家族にとってかわるものではありませんが、家族の支えがない人にとっての、もうひとつの家族として支えあおうとしていたのでした。
 教会は、神の家族であり、わたしたちのもうひとつの家族です。私たちによりそってくださる聖霊による交わりを深め、高齢の人、身寄りがない人、弱い立場に置かれた人々を、大事にし、よりそうことを目指しましょう。

2017年6月10日 (土)

6月4日ペンテコステ礼拝 「神の力に支えられて」

神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。(テモテ二 1章7~14節)

 主イエスが捕えられたときには逃げ去り、よみがえった主に出会っても疑い、主が天に上った後は自分たちだけで部屋に閉じこもっていた弟子たちが、ペンテコステの日を境に、大胆に、確信をもって、世界にむけて宣教の働きに向かいます。これは確かにふしぎなことです。それこそが聖霊、神の力がもたらしたことでした。「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださった(7節)」のです。それによって教会の歩みが始まっていきました。
 41年前、札幌北部伝道所が開設されたのも、この神の力によるふしぎでした。これからも、おくびょうにとりつかれることなく、力と愛と思慮分別の霊を信じ、神の力に支えられて前へ進む思いを新たにしましょう。
 ところで、今わたしたちは何に対しておくびょうになるというのでしょう。
 たしかに、教会は今、大きな問題に直面しています。高齢化や信徒数の減少、財政困難、伝道の不振などを前に、おくびょうになり、疑い深く、内に狭く閉じこもってしまいそうです。
 それだけでなく、時代の困難に迫られています。「共謀罪」「天皇代替わり」によって苦難がもたらされるでしょう。おくびょうに陥り、信仰が動揺し、閉鎖的になってしまうのでしょうか。
 「神の力に支えられて、・・・苦しみを忍んでください(8節)」と促されます。ペンテコステの後、教会は何もかも順調だったのではありません。苦難に直面し、失敗や挫折を重ね、それでも教会の歩みはやむことがありませんでした。それこそが神の力に支えられているしるしだったのです。
 わたしたちも「自分が信頼している方を知って(12節)」います。「わたしたちの内に住まわれる聖霊(14)」を信じ、勇気をもって歩みましょう。
 

2017年6月 3日 (土)

5月28日 「恵みの賜物」

これらのことを命じ、教えなさい。あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません。むしろ、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範となりなさい。わたしが行くときまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません。その賜物は、長老たちがあなたに手を置いたとき、預言によって与えられたものです。これらのことに努めなさい。そこから離れてはなりません。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。自分自身と教えとに気を配りなさい。以上のことをしっかりと守りなさい。そうすれば、あなたは自分自身と、あなたの言葉を聞く人々とを救うことになります。 (テモテ一 4章11~16節)

 テモテはパウロから信頼されて教会のつとめにあたっていました。しかし、年が若いということで周囲から軽く見られ、そのために自信を失いがちだったようです。そんなテモテへの励ましとして、「あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません」と記されています。
 教会の牧師を任命する際、所定の手続きや試験の後、頭に手を置いて祈る「按手」が行われます。旧約聖書の時代から、祝福や任命のしるしとして頭に手を置くことが行われてきました。14節にも「手を置く」ことがだいじなしるしとして触れられています。教会を代表する長老たちが手を置いて教会のつとめに任命したのだ、あなたにはすでにつとめを果たすのに必要な恵みの賜物が与えられているのだ、と励ましているのです。
 「恵みの賜物」によってなすべきつとめとして、「聖書の朗読と勧めと教え」(13節)が挙げられています。聖書を読み、それを解き明かして勧め教えることは、牧師として専念すべきつとめです。私自身、「若いうちは、いっしょうけんめい聖書を語るといい」と勧められたことを思い出します。
 しかし、それは牧師だけのつとめでしょうか。いま、牧師のいない礼拝で信徒が語る機会も増えています。自分の体験の証だけでなく、聖書を解き明かして語ることも求められています。実は、信徒になる洗礼の儀式の中でも「手を置く」ことが行われています。信徒もまたそれぞれに、聖書を語る恵みの賜物が与えられているのではないでしょうか。
日本のプロテスタント教会の源流となった、札幌のクラーク博士、横浜の宣教医ヘボン、熊本の教師ジェーンズは、いずれも牧師ではありませんでした。信徒のうちにある「恵みの賜物を軽んじてはなりません」。聖書を語ることに努めるとき、その「言葉を聞く人々を救うことになります」。

 

2017年5月27日 (土)

5月21日 「家庭と教会」

だから、監督は、非のうちどころがなく、一人の妻の夫であり、節制し、分別があり、礼儀正しく、客を親切にもてなし、よく教えることができなければなりません。また、酒におぼれず、乱暴でなく、寛容で、争いを好まず、金銭に執着せず、自分の家庭をよく治め、常に品位を保って子供たちを従順な者に育てている人でなければなりません。自分の家庭を治めることを知らない者に、どうして神の教会の世話ができるでしょうか。監督は、信仰に入って間もない人ではいけません。それでは高慢になって悪魔と同じ裁きを受けかねないからです。更に、監督は、教会以外の人々からも良い評判を得ている人でなければなりません。そうでなければ、中傷され、悪魔の罠に陥りかねないからです。 (テモテ一 3章2~7節)
 テモテ一3章には、教会のつとめにあたる者の資質・条件について記されています。「監督」とは、教会の働き全体を管理し、とくに教えについて責任を負うつとめであったようです。監督にふさわしい人の条件として、さまざまな資質の中でもとくに家庭人としてのありかたが挙げられていることが注目されます。「監督」が必ずしも今の牧師にあたるわけではありませんが、ここに挙げられた資質・条件は、しばしば今日の牧師やその家族に重くのしかかってきます。
 現実には「非のうちどころのない」牧師など、めったにいません。どの牧師も、自らをかえりみて、さまざまな過ちや失敗の痛みにうなだれるほかないでしょう。とくに5節は、家庭とのかかわりで痛みを覚える牧師にはいっそうつらくのしかかります。牧師がその家庭で評価されるとしたら、牧師本人だけでなく、その家族もまた重いプレッシャーを受けてしまいます。
 しかし、「家庭を治める」とは、「自分の家庭を世話し、心配り、労する」という意味であり、それは当然、家庭のために心痛め、苦悩し、重荷を負う」ことを含むでしょう。5節のことばは、「自分の家庭のために労り、心砕き、大切にし、愛する人は、きっと教会のために労し、心痛め、苦悩し、愛することができる」という意味に受けとめていいのではないでしょうか。
 それは牧師に限りません。家庭のために苦労し、それでも愛することを知る人は、教会を愛することができるでしょう。
 15節では、教会のことを「神の家」と表現しています。教会は、神が治める家庭です。神ご自身が、わたしたちのために心砕き、悩み、労苦してくださいます。わたしたちが非のうちどころのないよい子ではなくても、それを従順な者に育ててくださるに違いありません。

2017年5月20日 (土)

5月14日 「祈るつとめ」

 そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。わたしは、その証しのために宣教者また使徒として、すなわち異邦人に信仰と真理を説く教師として任命されたのです。わたしは真実を語っており、偽りは言っていません。だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈ることです。 (テモテ一 2:1~8)
 この手紙の2章8節以下には男女の役割について偏見ともいえる見方が記されています。それはこの手紙の成り立ちにもかかわっているようです。
 主イエスの周り、あるいはごく初期の教会では、多くの女性たちがだいじな役割を担って活躍していました。それは当時の社会にあってはショッキングなほど新しいことでした。しかし、時代が下るにつれ、その衝撃が薄れ当時の一般的な男女観が影響を及ぼすようになってきます。「牧会書簡」はそのような時代に記されたと考えられます。ですから、これらの見方を今の時代の教会にそのままあてはめることはできないでしょう。聖書のことばは、文字通り受けとめるより真意を尋ねもとめなければなりません。
 それにしても、なぜ「男は・・・祈ること」(8節)とされているのでしょう。女は祈らなくてもいいのでしょうか。
 2章1節以下には、人々のために祈り、とりなすよう勧められています。他者のために祈るのは、祭司のつとめであり、祭司は男とされていました。つまり、8節で言われているのは、教会には、またそのすべての信徒には、祭司として他者のために祈るつとめがある、ということでしょう。
 わたしたちの教会でも、礼拝や祈祷会などで祈る機会には、他の教会、地域の人々、この世界のために祈ることをこころがけています。プロテスタント教会は「万人祭司」といって、教会のすべての信徒に、他者のためにとりなし祈る祭司のつとめがあると理解してきました。
他者のために祈る、とは、つまり、他者に関心をよせるということです。他の人々に心をよせ、その課題を覚え、祈ることは、隣人への開かれた心とかかわりを導きます。他者を覚えて祈ることによって、わたしたちは共に生きるものとされるのです。

2017年5月13日 (土)

5月7日 「忍耐を示されて」

わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。  (テモテ一 1章12~17節)
 これから「牧会書簡」を学びます。使徒パウロが、弟子また同労者であるテモテやテトスに宛てて記したとされる三通の手紙です。内容的には、教会に仕える働きについて、パウロからのアドバイスや注意を書いたものですが、広く教会のあり方、あるいは教会の働きについて学ぶことができるでしょう。多くの学者は、パウロ自身が書いたのではないと考えていますが、何らかの意味でパウロの体験と考えを踏まえて書かれたものと受け止めて読んでいきたいと思います。
 テモテは、パウロに見出され、信頼されてだいじな働きに携わっていました。どちらかというと優しく穏やかな性格だったらしく、そのせいか周囲から軽んじられることをパウロは心配しています(コリント一 16:11)。若くおとなしいテモテは動揺し、自信を失いかけていたのかもしれません。 
 今日の箇所には、パウロの回心の体験が語られています。かつては教会を迫害していた「罪人の中で最たる者」のパウロが、憐れみを受け主のための務めにつけられました。それは、キリストが忍耐を示された「手本(むしろ「見本」という意味)」だというのです。そうして「雄々しく戦いなさい」(18節)とテモテへの励ましが記されます。
 私自身も、初めて教会のつとめについたとき、戸惑い、悩んだことがあります。しかし、自分の弱さや至らなさを差し出し、にもかかわらず忍耐を示してくださる主の憐れみを示すことが大切だと思い至りました。しかしそのとき、実は教会がすでにそのような忍耐を示していてくれていることに気付かされたのでした。
 わたしたちは、「罪人の最たる者」ですが、それでも共に生きるためにキリストが忍耐を示してくださっている「見本」なのです。

2017年4月29日 (土)

4月23日 「共に生きるために」

一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。(コリント一 12章26節)
 今日は教会総会です。昨年は教会の年度主題を「40年のその先へ、共に」と掲げました。教会創立40周年を感謝し、この時代の、特に弱い立場の人々と共に、また諸教会と共に歩むことを志しました。新年度もその歩みをさらに進める思いで、「共に生きるために」と掲げたいと思います。
 「共に生きる」「共に生きるために」ということばは、今ではあたりまえに聞かれますが、こういう言い方がなされるようになったのは、そう古いことではないようです。1973年、栃木県にアジア学院が設立されたとき、創立者の高見敏弘牧師が「共に生きるために」との理念を掲げました。その少し前、1962年からネパールで医療支援に携わった岩村昇医師が、高齢の患者を三日三晩背負って病院に運んでくれた貧しい青年が、「みんなでいっしょに生きるために(したことだ) サンガイ・ジウナコ・ラギ」といってお金を受け取らず帰っていったエピソードを紹介しています。ネパールの貧しい無名の青年の「共に生きるために」ということばが、日本に伝えられ広まっていったのです。岩村医師はまた、「生きるとは、弱い者と分かち合うことだ」とも記しています。
 コリント一12:26の句は「共に生きる」ことをあらわしています。よく似た句がローマ12:15にもあります。後者では命令形で記されていますが、前者は普通の文で、今すでに共に生きるものとされている姿を示しています。また、両者とも前段に体のたとえがあるのですが、コリント一では、弱い部分への神のはからいが強調されています。弱い者があるゆえに、体全体が「共に生きる」ものとされている、というのです。
 新年度、わたしたちが、共に生きるために造られ、導かれていることを信じ、その主のみこころに従って歩んでいきましょう。

より以前の記事一覧