カテゴリー「説教要旨」の記事

2020年9月12日 (土)

9月6日「支える根」召天者記念礼拝

しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。(ローマの信徒への手紙11章17~18節) 
 今年の召天者記念礼拝を特別な思いで迎えます。新型ウイルスに命と暮らしをおびやかされ、一日一日を重ねていく日常の意味をかみしめています。そしてまた、この1年の間に私たちの群れから3名を天に送っています。
 Wさんは、嫁いだ先がキリスト教の家庭で、とりわけ熱心な教会員だった義理の母に導かれて洗礼を受けました。その後、深い悩みや悲しみに出会ったときも、信仰を守って人生の旅を歩まれました。この教会の礼拝にいつも集っていた姿を私たちはよく知っています。
 礼拝にはTさんがいつもお花をいけてくださっていました。高橋さんもやはりお姑さんから信仰を受け継ぎました。入院生活の中で、「信仰があってよかった」と率直に語っていました。
 Kさんも長く入院生活を送っておられました。もの静かなご様子からは想像できないような、芯の強さをもっていらっしゃいました。
 この3名の方々だけでなく、多くの先達の信仰によって、今の私たちの教会の信仰が形作られてきました。
 パウロは、接ぎ木のたとえを用いて、「今、教会につながり信仰に生きているあなたがあるのは、根となるしっかりした台木に接ぎ木されているからだ。あなたがたの今は、自分だけで成り立っているのではない、支える根があってこそのことだ」と教えています。
 わたしたちは、野生の枝のように、そのままではよい実を結ぶことができないものでしたが、支える根となる信仰の先達にしっかり結び合わされ、時間をかけて信仰の養分を受け取って養われ育てられてきたのです。
 やがて私たちもまた、支える根とされていくことでしょう。

2020年8月29日 (土)

8月23日 「ある家族」

主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです。(ローマの信徒への手紙16章13節) 
 パウロは、数多くの人々への挨拶を記した中で、「ルフォスの母」のことを「わたしの母」とよんでいます。かつて、伝道の旅にあったパウロを、彼女が親身になって世話をしてくれたことをしみじみ思い起していたのでしょう。
 ルフォスのことは、わざわざ「主に結ばれている選ばれた者」とよんでいます。どういう意味でしょうか。
 「ルフォス」という名前がマルコ福音書15章21節に出てきます。主イエスの十字架をかつがされたキレネ人シモンが「アレクサンドロとルフォスの父」と紹介されています。マルコ福音書の読者であった教会の信徒たちの間で、「ルフォス」という信徒が知られていたのでしょう。このルフォスが、ローマ16章のルフォスと同一人物だった可能性があります。もしそうだとすると、シモンとその家族の歩みがゆたかに想像されるのです。
 シモンは、たまたま主イエスの十字架をかつがされたことをきっかけに、教会に連なり、信徒となったのでしょう。その信仰は、息子たちに伝わり、またその母、つまりシモンの妻も、教会を支える信徒としてパウロの世話にあたったのではないでしょうか。
 信仰をもった家族にとって、シモンが主イエスの十字架を負わされてひどい目にあったできごとは、かえって生涯の誇りとなったことでしょう。「主に結ばれ選ばれた者」とは、そういういきさつを指しているかもしれません。思いがけない災難が、主との出会いとなり、家族のきずなとなったのです。
 パウロが出会ったとき、シモンはもう亡くなっていたのでしょうか。またアレクサンドロはもう家にはおらず、もしかしたらパウロのように各地に伝道に出ていたのかもしれません。だとしたら、アレクサンドロとルフォスの母、シモンの妻は、なおさらの思いでパウロの世話にあたったことでしょう。
 信仰者それぞれの名前の背後に刻まれた信仰の物語を思うのです。

2020年8月22日 (土)

8月16日「これからのこと」

 兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストによって、また、“霊”が与えてくださる愛によってお願いします。どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください、わたしがユダヤにいる不信の者たちから守られ、エルサレムに対するわたしの奉仕が聖なる者たちに歓迎されるように、こうして、神の御心によって喜びのうちにそちらへ行き、あなたがたのもとで憩うことができるように。平和の源である神があなたがた一同と共におられるように、アーメン。(ローマの信徒への手紙15章30~33節)
 15章後半に、この手紙を書いた直接の動機である、これからのことが記されています。ローマ帝国東部での伝道の働きが一段落したパウロは、はるか西のイスパニア伝道を思い描きます。ローマの信徒たちの支援を得て、そこを拠点にイスパニアに向かおうと考えたのです(15:23~24)。
 しかし、パウロは、西に向かう前に、エルサレム教会の貧しい信徒たちへの支援金を持参することとしていました(25~28節)。パウロは、自分がかかわった異邦人教会にエルサレム教会支援をよびかけ、募金活動を熱心に行ってきました。その成果を自分自身で届けたかったのです。
 当時のキリスト教会には、異邦人伝道をめぐって大きな溝がありました。パウロの異邦人伝道を認めないユダヤ人キリスト者も少なくなかったのです。けれども、ユダヤの中心であるエルサレム教会が、異邦人教会からの支援を受け入れたらその溝が埋まるとパウロは考えたのでしょう。
 しかし、エルサレムの信徒たちが異邦人からの支援を拒絶する可能性もあります。また、エルサレムには、パウロを憎む非キリスト者のユダヤ人たちもいます。エルサレムに赴くのには大きなリスクがともないました。
 だからこそパウロは、ローマの信徒たちに、一緒に祈ってくれるよう切に願うのです(30節)。これから、厳しい現実に向かうにあたり、仲間の祈りが共に戦う力になるのです。
 今年度、「苦難から希望を」と教会主題を掲げています。苦難の中にあって、共に祈る祈りが希望となります。私たちは今、だれと共にこれからのことを祈るでしょうか。
 パウロたちの祈りはむなしくは終わりませんでした。彼が思い描いた通りではありませんでしたが、主ご自身がこれからのことを導き、形作ってくださったのです。そこにわたしたちの希望もあります。

2020年8月 8日 (土)

8月2日「平和のつくりかた」平和聖日礼拝

だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。(ローマの信徒への手紙12章17~21節) 
 

 聖書の「平和」は、すべてのよい状態、よい関係をあらわす奥深いことばです。キリストは「平和を実現する人々は幸いである」と告げました。どうやって平和を実現する、平和をつくることができるでしょうか。
 ローマの信徒への手紙は12章以下で信仰生活の実際について教えています。ポイントをひとことでいえば「愛と平和」です。愛に基づいてよい関係に結ばれる共同体として教会をかたちづくり、さらにそれは教会外の「すべての人と平和に暮らす(18節)」ことへと促されていきます。
 18節には「できれば、せめてあなたがたは」とありますが、フランシスコ会訳聖書では「あなたがたの力の及ぶ限り」と訳しています。相手がどうであれ、あなたがたの側では、ひるむことなく、せいいっぱいすべての人との平和を追求しなさい、と力強く迫ることばです。
 「平和に暮らす」ために、「善をもって悪に勝つ(21節)」よう、具体的には、悪意をもって迫ってくる相手に復讐せず、かえって親切にするよう勧められています。それによって「燃える炭火を彼の頭に積むことになる(20節)」とは、相手が痛恨の悔い改めを抱く、という意味と考えられています。
 かつて迫害者として教会に迫ったパウロを、キリスト者たちは親切に迎え入れました。彼はアナニアによって癒され、ダマスコの信徒たちに助けられました(使徒言行録9章)。悪に復讐せず、敵に親切にするというふるまいが、パウロ自身の教会との出会いであり、信仰の出発点でした。その思いは、彼の頭にいつも炭火のように燃えていたことでしょう。
 戦後75年となります。私たちは、かつてのふるまいに対する痛恨の悔い改めを抱き続け、善をもって悪に勝つ、平和への強い決意と勇気を新たにしなければなりません。
 

2020年8月 1日 (土)

7月26日「永遠の負債」

互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。(ローマの信徒への手紙13章8~10節)
 
 新型ウイルスで社会が揺れ動く中、教会は何をすべきでしょう。昔、疫病が流行した際、教会は愛によって医療や看護につとめました。今この状況の中でも、愛に基づく働きにつとめている教会があります。
 愛することは教会、キリスト者のつとめです。パウロはかつて律法を全うしようと懸命に努力し、かえって愛を見失って人に悪を行って苦しめ損なっていました。その痛恨の思いをもって「人を愛する者は律法を全うする」「愛は隣人に悪を行わない」と記したのではないでしょうか。愛を「借り」(8節)と表現したのも、そういう過去の負い目によるものだったのかもしれません。永遠に返済できない「借り」「負い目」「負債」です。
 互いに愛しあうことは、いつまでも残る「借り」「負債」だということは、いいかえればわたしたちは愛を完成できないということです。パウロは、この手紙で「人は律法を全うできない」と述べてきました。律法とはつまり人を愛することだとしても、私たちは愛を全うできず、いつまでも負い目が残るのです。
 その負い目は、律法つまり神の掟、神のみこころに従うことができないという神に対する負い目です。それは「罪」という意味でもあります。
主の祈りで「負い目を許してください(マタイ6:12)」と祈ります。わたしたちは神に対して「みこころに従って隣人を愛することができない」という負い目を負っているのです。
 しかし神はまた、この負い目をゆるしてくださる方です。主イエスは、とてつもなく大きな負債をゆるす神を示してくださいました(マタイ18:23~)。
 わたしたちは、返すことのできない負債、愛を全うできない負い目を、それでもゆるされているのです。それが神の愛です。それほど大きな愛を注がれていることこそ、永遠の負債という恵みなのです。

2020年7月25日 (土)

7月19日「信じない者へ」

 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。(ローマの信徒への手紙10章13~15節) 
 神の民を自負するユダヤ人が、なぜ神の御子キリストを信じないのでしょう。パウロはこの問題をとりあげて9~11章で論じています。そこにはパウロ自身の体験も重なっていると考えられます。
 10章冒頭で、ユダヤ人について「熱心に神に仕えている・・・この熱心さは正しい認識に基づくものではありません。神の義を知らず、自分の義を求めようとして神の義に従わなかった(10:2~3)」と語りますが、これは以前のパウロの姿そのものです。罪人を見捨てずに愛し、裁きではなく救いをもたらす神の正義=神の義を知らず、裁かれることがないようにと自分が正しくあること=自分自身の義を追い求めて律法に固執していたパウロでした。
 しかし、神が求めるのは、罪人をゆるす神を信頼し、神を慕ってよびかけることでした。救いは呼び求めることから、呼び求めるのは信じたから、信じるのは聞いたから、聞いたのは宣べ伝えたから、宣べ伝えたのは遣わされたからでした(13~15節)。そして遣わしたのはほかならぬ神です。神ご自身が、救いをもたらすために働きかけてくださったのです。しかしユダヤ人は、聞いたにもかかわらず、信じなかったのです(17~18節)。
 そのため、かえって異邦人が神を知ることとなりました(19~20節)。しかし、神はなお、信じない者、不従順で反抗する民に、救いの御手を差し伸べてくださるのです(21節)。信じない者へ差し伸べられる神の御手によってパウロは信じる者とされました。わたしたちもまた、信じない者へ差し伸べられた御手の働きを知っているのではないでしょうか。
 そしてパウロは、その御手の働きのため、信じない者も聞くことになるために自分が遣わされたことを自覚しました。わたしたちも、その御手の働きに用いられるときがあるでしょう。それは幸いなつとめではないでしょうか。

2020年7月18日 (土)

7月12日「肉親を思う」

わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。(ローマの信徒への手紙9章1~5節)

 ここにいる多くの方々が、だいじな家族・肉親にキリスト教信仰を理解してほしい、できれば同じ道を歩む者となってほしい、と願っていることでしょう。教会の歴史の始めの多くの信仰者も同じ思いを抱いていたはずです。
 その時代のひとり、パウロには、妻子はいませんでしたが姉妹や甥などの肉親がいたようです(使徒言行録23:16)。パウロが「肉による同胞のためなら」(3節)と記したとき、彼らの顔を思いうかべていたのかもしれません。
 内村鑑三は『ロマ書の研究』の中で、パウロが口述筆記でこのように述べていくようすやその心の動きを、見てきたように生き生きと描き出しています。内村自身、信仰に入ったあと、肉親に信仰を理解してもらいたいと切に願い、なんども拒絶されながら父に働きかけたことがありました。そういう肉親への思いを、思わずパウロに重ねたのでしょう。わたしたちもまた、同じ思いを共にするのです。
 しかし、パウロは「あなたは夫(妻)を救えるかどうか、どうしてわかるのか(コリント一 7:16)とも述べています。私たちの思いが目の前でかなえられるとは限らないこともわきまえなければなりません。9~11章でパウロは、同胞であるユダヤ人がキリストを受け入れず、そのために福音が異邦人に伝えられるに至ったこと、しかしそれを見て最後にユダヤ人も神に立ち返るという神の計画を示しています。その計画の完成を自分は見ることができないとしても、肉親への深い思いを神にゆだねるのです。
 内村鑑三は、また「同胞」を日本人のこととして語っています。日本の社会から迫害を受けながらも日本人の救いを心から願い、「日本人の救いのために働くは、また全世界の救いのために働くこと」と促しました。肉親を思い、そのために世界を思って働く信仰を心にとめましょう。

2020年7月11日 (土)

7月5日「神が味方」

では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。(ローマの信徒への手紙8章31~34節)
 
 厳しい状況におかれたとき、味方となってくれる人がいるかどうかで希望と絶望に大きく分かれます。パウロは、「もし神が味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」と記します。神が味方ならこんなに心強いことはないでしょう。では、「敵対」するのは誰を想定しているのでしょうか。
 33~34節には、わたしたちを「訴え」「罪に定める」者が想定されています。これは、わたしたちの罪を裁く神ご自身のことにほかなりません。ところが、その絶対的な裁き主が、わたしたちを訴え、裁くことをせず、無罪とすることを決め、そのためにキリストを遣わされたというのです。
 「神が味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」とは、本来ならわたしたちに相対してむかいあうはずの神が、なぜかわたしたちの側についてくださっている、という驚きと感動のことばです。わたしたちに敵対するはずの神なのに、というより、神に敵対していたわたしたちなのに、神はそのわたしたちに味方してくださったのです。
 そのために神はキリストを遣わし、その命を与えてくださいました。ここにそれが神の愛、キリストにおいてしめされた愛なのです(38~39節)
 背いたものを、それでも責め裁かずに愛し、味方になってくれる神は、主イエスが「放蕩息子のたとえ」で語られた父親の姿そのものです。ただし、このたとえでは、キリストのことは明確に示されていません。神が、背いたものをゆるすために、どれほどの痛みを負ったかを思わねばなりません。
 神は、わたしたちに大きな愛を示し、御子キリストという大きな犠牲をはらって、敵対するのではなく味方となり、わたしたちの側に、共に立ってくださいました。その愛を受け入れ、わたしたちも、神の味方として、神の側に立つと、心さだめましょう。

2020年7月 4日 (土)

6月8日「新しい自分」

ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。(ローマの信徒への手紙7章4~6節)
 
 「コロナ後」の社会は、これまでとは異なるものとなっていくでしょう。政府は「新しい生活様式 ニュー・ライフ・スタイル」と称して「人との間隔をあける」「マスク・手洗いをする」などと勧めています。しかし「ライフスタイル」をいうなら、この社会の価値観や、これまでのひとりひとりの生き方といった、もっと深く本質的な点から変えていくべきでしょう。
 なにか大きなできごとに出会ったとしても、それをどれほどの深さでうけとめるかで、そのできごとの意味が定まってきます。表面的な浅いレベルで終わってしまうのか、これまでの生き方・ライフスタイルや、心の内までが変わるのかで、そのできごとが人生のだいじな出会いになるのか、ひとつのエピソードに終わるかが決まってくるのです。
 「卒業信者」という言い方があります。洗礼を受けたのに教会を離れてしまった人の中には、教会をも「よい思い出」のひとつとしてキリスト教を「卒業」してしまう人がいます。洗礼のできごとを深く受けとめることなく、浅いレベルで終わってしまったようです。
 パウロは、洗礼の意味を、キリストの死と復活にあずかることだと記します。それは人生が、その前後でがらっと変わってしまう、決定的なできごとだということです。パウロにとって洗礼は、それほどの深い大きなできごとでした。
 「罪へ誘う欲情が律法によって働く」(5節)というのは、一般論というよりむしろパウロ自身の体験だったのでしょう。キリストと出会い、洗礼を受けることによって、パウロは律法からの解放を味わい、キリストに生きる新しい自分となったのでした。
 「『わかる』とは『かわる』ことだ」と言います。新しい自分にかわるほどに、キリストとそのできごとが「わかる」ことを望みましょう。

2020年6月27日 (土)

6月21日「復活を生きる」

このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。(ローマの信徒への手紙6章11~14節)
 パウロは、「恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても無罪の判決が下される」(5章16節)と記しました。「じゃあ、何をしてもいいのか?」という疑問が生じます。どんなに多くの罪もゆるされるなら、罪など気にせず好きにふるまっていいのでしょうか。
 それに対してパウロは、「決してそんなことはない。私たちは洗礼を受けているではないか」と答えるのです(6章2~3節)。
 キリスト教の洗礼は、一度きり、イエス・キリストの名によって行われます。それは、ただ一度のイエス・キリストの死にあずかり、復活の命に生きることを意味します(4節)。洗礼はもともと全身を水に沈めて行われるものでした。それは、キリストといっしょに死と復活を体験することです。
 パウロは、洗礼によってあなたがたは罪に対して死に、「キリスト・イエスの中で神に生きる(11節直訳)」と記します。「神に生きる」とは、「神との関係で」「神の前で」「神のために」といった意味です。洗礼によって罪の自分は死に、神とつながり、神のために、神の前で生きるものとなったのです。
 小説『ああ無情』の主人公ジャン・バルジャンは、罪を許す大きな愛に触れて、罪の自分が死に、神に生きるものとなりました。パウロ自身も、キリストとの劇的な出会いによって洗礼を受け、以後は全く違う人生をたどることになりました。けれども、私たち皆が洗礼によってそんな劇的な変化をとげるわけではありません。それでもパウロは、「自分自身を神に献げなさい。罪はあなたがたを支配することはない。あなたがたは恵みのもとにいる(13~14節)」と記します。これは洗礼を受けた私たちへの「大丈夫、あなたはもう恵みのもとにいるのだ、きっと神に生きるものとなる」という促しであり、励ましです。洗礼によって与えられた新しい命、キリストの復活の命を大切に受け止めましょう。

 

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