カテゴリー「説教要旨」の記事

2018年12月 8日 (土)

12月2日 「力の源」

民は皆、水の門の前にある広場に集まって一人の人のようになった。彼らは書記官エズラに主がイスラエルに授けられたモーセの律法の書を持って来るように求めた。祭司エズラは律法を会衆の前に持って来た。そこには、男も女も、聞いて理解することのできる年齢に達した者は皆いた。第七の月の一日のことであった。彼は水の門の前にある広場に居並ぶ男女、理解することのできる年齢に達した者に向かって、夜明けから正午までそれを読み上げた。民は皆、その律法の書に耳を傾けた。(ネヘミヤ8章1~3節)
 
 バビロン捕囚から解放されて帰ってきたユダの民は、困難と妨害を乗り越えてようやく神殿を再建し、エルサレムの城壁を修復しました。しかし、かつてのような独立の回復は不可能です。彼らは、モーセの律法に基づく宗教共同体として、歴史を歩んでいくこととなります。ネヘミヤ記8章は、そのような共同体としての新たな出発となる、重要な場面です。
 広場に集まった人々に、エズラが律法を読み聞かせ、レビ人たちが解説しました。律法は単なる宗教上の掟ではありません。かつてエジプトで奴隷としてばらばらだった人々が、神と契約を結び、信仰によってひとつにまとまり、神のみこころに基づく共同体、神の民を形作っていくための定めです。神のみこころに従う神の民、共同体を形作ることが律法の目的なのです。
 その律法を再び示されて、民は泣きました(8節)。かつて、この律法に基づいて神の民が形作られるはずだったのに、自分たちはその歩みを誤って、神のみこころにそむき続け、ついに国は滅ぼされ、捕囚の苦しみと再建の労苦を負うに至ってしまったのです。その罪と、失ったものの大きさを思い、後悔と嘆きの涙を流したのでしょう。
 しかし、ネヘミヤやエズラは、「今日は主に献げられた聖なる日」とよびかけ、喜び祝うよう促します(9~10節)。自分たちの罪にまさる神のみわざに心を向け、このような罪深い我々と、それでも共にいてくださる神の愛とあわれみを感謝し喜び祝うことが、神の民として新しく歩みだす「力の源」となるのです。
 それからはるか後、神は御子を送り、新しい神の民の形成を導きました。御子を迎えるクリスマスを、主に献げられた日として喜び祝いましょう。それが、新しい神の民、教会の歩みの「力の源」となるでしょう。
 
 
  
 

2018年12月 1日 (土)

11月25日 「ユダの人々の王」

サンバラト、トビヤ、アラブ人ゲシェム、その他わたしたちの敵は、わたしが城壁を再建し、崩れた所が一つとして残らず、あとは城門に扉を付けるだけだということを耳にした。サンバラトとゲシェムはわたしのもとに使者をよこして、「オノの谷にあるケフィリムで会おう」と言った。彼らはわたしに危害を加えようとたくらんだのであった。そこでわたしは使者を送って言わせた。「わたしは大きな工事をしているので、行けません。中断して出かけたのでは、どうして工事が終わるでしょうか。」彼らは同じことを四度も言ってきたが、わたしも同じように返事を繰り返した。五度目にサンバラトは、配下の者を同じ言葉をもってわたしのもとによこしたが、その手には開封の手紙があった。そこには、こう書かれていた。「あなたとユダの人々は反逆を企てていると、諸国のうわさにもなっているし、ガシュムも言っている。城壁を建てているのはそのためであろう。あなたはユダの人々の王になろうとしているということだ。また、あなたはあなたのことを宣言する預言者をエルサレムに立てて、ユダの王だと言わせているそうだ。今このうわさは、王のもとに届こうとしている。早速相談しようではないか。」そこでわたしは返事を送った。「あなたの言うことは事実に反する。あなたの勝手な作り事だ。」
彼らは皆、わたしたちの手が弱り、工事は完成しないだろうと言って、わたしたちに恐怖を与えている。神よ、今こそわたしの手を強くしてください。         (ネヘミヤ6章1~9節) 

 バビロンからエルサレムに帰還した民は、ようやく神殿を再建しましたが、エルサレムの城壁はバビロンによって破壊されたままでした。城壁が損なわれていては、安心して住むことはできません。
 神の民が安心して集い暮らす場所として、教会の会堂を整えるのは大切なことです。教会がある町そのものが損なわれることもあります。災害で被災した町の復興に携わり、社会変動で崩されていく地域社会を守ることも、教会の課題、使命です。
 エルサレムの再建にあたったのがネヘミヤです。しかし、城壁再建の事業は、ホロニ人サンバラト、アンモン人トビヤ、アラブ人ゲシェムといった敵対者たちに妨害されます。彼らは既得権が奪われると警戒したのでしょうか、実力行使をはかったり、ネヘミヤ自身に危害を加えようと企てたりします。さらに「『ネヘミヤが反逆してユダの人々の王となろうとしている』と、ペルシア王に告発するぞ」と脅します。深刻なのは、ユダの指導者の中にも彼らに通じている者たちが少なくないことでした。ネヘミヤはこうした外敵や内通者に脅かされながらも、民を守る町の再建をなしとげました。
 ネヘミヤから数百年後、やはり「ユダヤ人の王になろうとしている」と告発され、身近な者たちに裏切られ、捕らえられて処刑された人物がいます。しかし、この方こそは、ほんとうに従うべき方、王であったのです。この方が生まれたときには、東の方、かつてのペルシアから「ユダヤ人の王として生まれた方はどこに」と学者たちが訪ねてきたことが伝えられています。
 ネヘミヤは、はるか後に真実の王が来られる場所を整えたのです。私たちも、いつか真実の王、キリストが来られると信じ、私たちの住まう町を、地域を、守り整える働きに仕えるのです。 

2018年11月24日 (土)

11月18日 「家族のきずな」

このような事があって後、長たちがわたしのもとに来て、言った。「イスラエルの民も、祭司も、レビ人も、この地の住民から離れようとはしません。カナン人、ヘト人、ペリジ人、エブス人、アンモン人、モアブ人、エジプト人、アモリ人と同様に行うその住民の忌まわしい行いに従って、彼らは、自分のためにも息子たちのためにもこの地の住民の娘を嫁にし、聖なる種族はこの地の住民と混じり合うようになりました。しかも、長たる者、官職にある者がこの悪事にまず手を染めたのです。」わたしはこのことを聞いて、衣とマントを裂き、髪の毛とひげをむしり、ぼう然として座り込んだ。 (エズラ9章1~3節)
 
 家族が家族としてむすびあう、そのきずなは何でしょう。心の結びつき、愛でしょうか。しかし、心がうつろい、愛が薄れ、壊れてしまうこともあります。それでも家族の形が生活のため、あるいは世間体のために保たれることもあるでしょう。答は単純に割り切れるものではありません。
 聖書に、家族が問われる場面があります。バビロン捕囚から帰還した民には、現地の異民族の娘をめとって家庭を築いた人が少なくありませんでした。指導者エズラはそれを許しがたいこととして、離縁を命じたのです。
 帰還してきたイスラエルの人々は、ありていにいって貧しい移民にほかなりません。生活基盤を得るため、現地の女性の実家を頼ったのが実態でしょう。生活習慣も文化も言語も現地の人々にあわせて暮らし、このままだと次の世代にはイスラエル民族は消滅してしまいかねません。他民族と縁を切ることが、民族を守るための究極の手段だったのです。
 とはいえ、夫たちは、それをよしとしたのでしょうか。それまで営んできた家族のきずなとは何だったのでしょう。
 何があっても、誰から何と言われても、家族がばらばらにならないような確かなきずながあるでしょうか。
 私の父は、戦後の混乱期、家族がばらばらになる体験をしました。自分が家庭を築くとき、何があっても壊れない家族のきずなの確かな支えを求めてキリスト教の洗礼を受けました。また、妹はインドネシア人の男性と結婚しています。彼はイスラム教の家庭出身でしたが、結婚に際しキリスト教を受け入れ、家族もやがて理解してくれました。
信仰によるきずなもあれば、民族や宗教をのりこえるきずなもあります。人と人を結ぶ確かなきずなを求めるとき、どんな答を見出すでしょうか。 

2018年11月10日 (土)

11月4日 「たてなおす」

預言者ハガイとイドの子ゼカリヤが、ユダとエルサレムにいるユダの人々に向かってその保護者であるイスラエルの神の名によって預言したので、シェアルティエルの子ゼルバベルとヨツァダクの子イエシュアは立ち上がって、エルサレムの神殿建築を再開した。神の預言者たちも彼らと共にいて、助けてくれた。そのときには、ユーフラテス西方の総督タテナイとシェタル・ボゼナイ、およびその仲間たちが彼らのもとに来て言った。「この神殿を建て、その飾りつけを完成せよ、と誰がお前たちに命令したのか。」そこでまた彼らに、「この建物を建てている人々の名前は何というのか」と尋ねた。 しかし、神の目がユダの長老たちの上に注がれていたので、彼らは建築を妨げることができず、その報告がダレイオスになされ、それに対する王の返書が送られてくるのを待った。(エズラ5章1~5節)
  
 旧約聖書の内容は、大きく歴史・文学・預言の三部に分けられます。歴史の部では、天地創造から神の民イスラエルの形成、王国の成立と滅亡を述べていきます。そして、エズラ記・ネヘミヤ記で、バビロン捕囚からの解放と再建のいきさつが述べられます。
 バビロンを滅ぼしたペルシア王キュロスは、捕囚の民に帰還を許しました。喜び勇んで故国に帰ってきた人々が見出したのは、厳しい現実でした。エルサレムの町は破壊され、神殿は失われ、故郷には貧しい民や異民族が暮らしていました。
 帰還した民の指導者ゼルバベルと祭司イエシュアは、民を励まして神殿の再建にとりかかりました。しかし、まもなく工事は中断してしまいます。外部からの妨害もありましたが、民自身が生活に追われ、神殿の再建どころではなくなってしまったのです。
 しかしそこに神の力が働き始めます。預言者ハガイとゼカリヤが現れてゼルバベルを励まし、工事の再開を促しました。またペルシアの総督が事をとがめますが、経緯が確認された結果、政府が建設費を支出することとなりました。こうして神殿の再建が成し遂げられたのです。
 神の民のたてなおしは、まず神殿から、つまり礼拝と信仰の回復からでした。妨げの大きさや生活の厳しさから、民自身は挫折したとしても、神のみわざがたてなおしてくださったのです。この神は、今、わたしたちの教会や、あるいはそれぞれの信仰のたてなおしをも成し遂げてくださるでしょう。
 神は、ただかつての町や神殿を再建されただけではありませんでした。そこにやがて新しい王、キリストが来られるのです(ゼカリヤ9:9)。やがて来られるキリストによって、神の民が真実にたてなおされることになるのです。

2018年11月 3日 (土)

10月28日「恵みの中にありながら」 収穫感謝日礼拝

今この時
わたしたちの神よ 偉大にして力強く畏るべき神よ 忠実に契約を守られる神よ
アッシリアの王の時代から今日に至るまで、わたしたちが被った苦難のすべてを
王も高官も祭司も預言者もわたしたちの先祖も、あなたの民の皆が被ったその苦難のすべてを
取るに足らないことと見なさないでください。
このすべては起こるべくして起こったのです。
あなたは正しく行動されました。あなたは忠実に行動されました。
しかし、わたしたちはあなたに背いてしまいました。
王も高官も、祭司もわたしたちの先祖も 
あなたの律法に従わず 度重なる命令にも戒めにも耳を貸しませんでした。
あなたがお与えになった国と豊かな恵みの中にありながら
あなたがお与えになった広く肥沃な土地にありながら
彼らはあなたに仕えようとはせず、不正と悪行を改めようとはしませんでした。
御覧ください、今日わたしたちは奴隷にされています。
先祖に与えられたこの土地
その実りと恵みを楽しむように与えられたこの土地にあって
御覧ください、わたしたちは奴隷にされています。
この土地の豊かな産物も、あなたがわたしたちの罪のためにお立てになった諸国の王のものとなり
わたしたち自身も、家畜も、この支配者たちの意のままにあしらわれているのです。
わたしたちは大いなる苦境の中にあるのです。
                           (ネヘミヤ9:32~37)

 今年、北海道は災害や天候不順で、けっして作物の出来がよいとは言えません。それでもなお、多くの恵みが与えられました。それに対して、人の世の出来はどうだったでしょうか。
 聖書には、神の民イスラエルの歩みについての痛切な反省のことばがのべられています。イスラエルの民が滅亡と破壊を経て、再建と再出発に臨んだ時の悔い改めのことばです。
 神の恵みによってエジプトを脱出し、神と契約を結んだイスラエルは、神に導かれた土地で繁栄を築きます。しかし、やがて国は滅ぼされ、民はバビロンに捕囚とされてしまいます。捕囚の苦悩の中、彼らは自らの歴史を振り返り、神のみこころを懸命に尋ね求め、信仰を深めていきます。
 バビロンが滅び、故郷への帰還を許された民は、エルサレムの城壁と神殿を再建します。そして信仰に基づく共同体の再建に向けて、民が集められて律法が朗読されました(8:1~3)。その後、民は自分たちの歩みを深く悔い改めます(9:1以下)。苦難からの再出発にあたって、歴史の中の神の恵みを数え上げ、「恵みの中にありながら、それにふさわしく歩んでこなかった」と痛切に告白したのです。
 日本基督教団は、50年前「戦争責任告白」を公表し、神に従わず戦争に協力した教会の過ちを告白しました。日本社会そのものも、戦後、それまでの歴史に対する痛切な反省から、再出発・再建の歩みを踏み出したはずです。それをないがしろにしてはならないのです。
 今年、またじゅうぶんに豊かな恵みがあたえられました。しかし、私たちは、この恵みにふさわしく歩んできたでしょうか。今、与えられた神の恵みの中をどう歩んでいくのか、問われています。

2018年10月15日 (月)

10月7日 「救いのために」 世界聖餐日

夜が明けかけたころ、パウロは一同に食事をするように勧めた。「今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません。」こう言ってパウロは、一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた。そこで、一同も元気づいて食事をした。船にいたわたしたちは、全部で二百七十六人であった。十分に食べてから、穀物を海に投げ捨てて船を軽くした。(使徒27章33~38節)

 囚人パウロを護送する船は暴風に行く手をはばまれます。漂流して14日目の夜中、船員たちは、浅瀬にぶつかるのを避けるため錨を下ろして夜明けを待ちます。人々は、暗闇の中、命の不安と恐怖にさらされていました。
 ようやく空が白んで手元が見えるようになってきたころ、パウロが「なにか食べてください」とよびかけ、一同の見守る中、パンをとり、感謝の祈りをささげてそれを裂き、食べ始めたのです。
これは、聖餐の際のしぐさです。パウロは自分の信仰に基づいてパンを食したのでしょう。もちろん、見ている一同のほとんどは、それが何を意味するのか、知りません。危機の中にも関わらず、囚人パウロが、落ち着き払ってパンをとり、彼の神に祈り、食べるのを、不思議な思いで見ていたでしょう。食事ものどを通らない恐怖と疲労を抱えていた一同は、それを見てなぜかほっと元気づけられ、それぞれに食べ始め、危機を乗り切って皆が助かりました。
 パウロは、一同に、「生き延びるために必要だから」(34節)と言って食事を勧めました。これは「救いのために必要」「ここに救いがある」とも訳せます。危機の中、信仰者がおちついて聖餐に養われることが、船に乗り合わせた一同を導き促し、みんなの救いとなったのです。
 世界聖餐日は、世界中の諸教会が、分裂や対立をのりこえて共に主の食卓につき、平和と一致を信じ祈るように定められました。今日の世界は、あたかも嵐のなかの船のように、暴風にさらされ、ただよい、これからどうなるのか、不安と恐怖にさらされています。この分裂と対立を抱えた世界で、教会が真実に主のパンを分かち合い、平和と一致の姿を示すのならば、それは世界を促し導き、救いをもたらすのではないでしょうか。嵐の夜が明けることを信じ、いまこの時、この世界で、パンを食しましょう。 

2018年10月 6日 (土)

9月30日「私のように」

パウロがこう弁明していると、フェストゥスは大声で言った。
「パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ。」
パウロは言った。「フェストゥス閣下、わたしは頭がおかしいわけではありません。真実で理にかなったことを話しているのです。王はこれらのことについてよくご存じですので、はっきりと申し上げます。このことは、どこかの片隅で起こったのではありません。ですから、一つとしてご存じないものはないと、確信しております。アグリッパ王よ、預言者たちを信じておられますか。信じておられることと思います。」
アグリッパはパウロに言った。「短い時間でわたしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか。」
パウロは言った。「短い時間であろうと長い時間であろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。このように鎖につながれることは別ですが。」       (使徒26章24~29節)

 パウロは、新任のローマ総督フェストゥスと、ユダヤの一部を支配していたアグリッパ王の前で、自分の信仰について語る機会を与えられました。
 主イエスと出会って、主の証人としての使命を与えられたことを語り、自分が証してきたのはメシアが苦難を受けて復活し、ユダヤ人にも異邦人にも救いをもたらすということであり、これこそ旧約聖書に書かれたことの実現だ、と締めくくります(22~23節)。
 パウロは、「すべての方が私のようになることを祈る」と言い切ります(29節)。伝道の強い思いが込められたことばです。私たちは、そのように強い思いをもって福音を宣べ伝えることでしょうか。
 この、「私のように」とは、具体的にはどういうことでしょう。
 なによりまず、「私のようにキリストに出会ってほしい」 という願いがあるでしょう。パウロがまったく思いもよらず主イエスに出会ったように、私たちも主イエスとの出会いをそれぞれに与えられてきました。そして、親しい人、大切な人、まわりの人々もまた、私のように、主イエス・キリストとの出会いが与えられるようにと祈るのです。
 そしてその出会いの中で、パウロは主の証人としての使命を与えられました。生涯の歩みを通して主イエス・キリストがどういう方であるかを示す使命は、私たちにも与えられています。
 主を証しするのは、私たち自身の生き方です。私たちも、パウロと同じように、神の約束の実現を希望として抱いています(6~7節)。キリストの十字架と復活によって、世界の民に光として告げられた救いを希望としているのです。希望をもって生きる私たちの生き方が、主を証しします。誰もが、この希望をもって生きるものとなるように、私たちも神に祈るのです。 

2018年9月29日 (土)

9月23日 「中途半端でも」

その夜、主はパウロのそばに立って言われた。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」(使徒23章11節)

 パウロをこころよく思わない人々は、彼が律法を無視して異邦人を神殿に連れ込んだと騒ぎたてます。ローマの治安維持部隊がパウロを救出しますが、パウロは許可を得て自分で人々に語り始めました。キリストへの回心のいきさつを語り、主から異邦人への福音宣教の使命を与えられたと述べたとき、また大騒ぎとなって話は中断させられます。ユダヤの人々は、神が異邦人に救いをもたらすなどありえない、パウロは偽りを言って神を冒涜している、と憤ったのです。
 ユダヤの言葉がわからないローマの部隊長は、くわしい事情をユダヤの最高法院に調べさせようと考えました。しかし、最高法院こそはパウロの敵対者たちの牙城です。まともな審問にもならず、けんか腰の低レベルなやりとりに終わってしまいました。
 パウロは、もっと語りたかったはずです。使命として与えられた異邦人伝道の働きがどれほどゆたかな実りをもたらしたかを示し、またその過程で数多くの手紙に記したようなキリスト教信仰の真理について論証したかったことでしょう。しかし、中途半端に、納得のいかないまま中断させられて、じゅうぶんに語ることができませんでした。
 しかしその夜、挫折と失意に沈むパウロのかたわらに主が立ち、「力強く証しした」と認めてくださいました。さらに、この先になお、やることがある、ローマでも証しをすることになっている、と示したのです。
中途半端で不本意なまま、挫折してしまうことがあります。しかし主は、そんな私たちのかたわらにたち、中途半端な働きをも認めて用いてくださり、さらになお使命を与えてくださいます。力及ばないことを恐れるのではなく、たとえ中途半端でも用いてくださる主を信頼しましょう。

2018年9月22日 (土)

9月16日 「配慮」

パウロは挨拶を済ませてから、自分の奉仕を通して神が異邦人の間で行われたことを、詳しく説明した。これを聞いて、人々は皆神を賛美し、パウロに言った。「兄弟よ、ご存じのように、幾万人ものユダヤ人が信者になって、皆熱心に律法を守っています。この人たちがあなたについて聞かされているところによると、あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、『子供に割礼を施すな。慣習に従うな』と言って、モーセから離れるように教えているとのことです。いったい、どうしたらよいでしょうか。彼らはあなたの来られたことをきっと耳にします。だから、わたしたちの言うとおりにしてください。わたしたちの中に誓願を立てた者が四人います。この人たちを連れて行って一緒に身を清めてもらい、彼らのために頭をそる費用を出してください。そうすれば、あなたについて聞かされていることが根も葉もなく、あなたは律法を守って正しく生活している、ということがみんなに分かります。」 (使徒21章19~24節)

 律法を守るユダヤ人にとって、異邦人は遠ざけるべき存在でした。ところがパウロは積極的に異邦人に伝道し、彼らをユダヤ人と同等に教会の仲間としてきました。しかも、救いは律法によるのではなくキリストへの信仰によると教えたのです。これまでの神の民の歴史はいったいなんだったというのでしょうか。ユダヤの都エルサレムの教会には、パウロの活動に納得いかないユダヤ人の信者も多かったのです。
 パウロは、エルサレム教会の長老たちに、自分のこれまでの伝道の働きについて報告しました。結論から言えば、長老たちは、それを神のみわざと認めて神を賛美したのでした(20節)。
 この時、長老たちはパウロにある提案をします。律法に基づく儀式にパウロも参加して律法を尊重していることをアピールすれば、パウロに疑念を抱いている教会内外のユダヤ人たちも納得するだろうというのです。教会の一致を守り、外部からの攻撃を避けるための配慮でした。パウロも承知してそのように行いました(26節)。
 ところが、儀式のために神殿に赴いたことがかえって誤解を招き、大騒ぎになります(27節以下)。結局、これによってパウロは拘束され、ついにはローマに護送され、そこで命を終えることになります。教会のための配慮が裏目に出てしまったのです。 
 しかしまた、これによって、パウロは思いがけない形でローマに導かれることになりました。それが神の計画であったのです。
 人間の配慮が裏目に出、思惑が破れることがあります。しかし、神の計画、御心、配慮は実現します。人の浅はかさを用いてでも、神のみわざはなしとげられるのです。

2018年9月 8日 (土)

9月2日「自分の道を終わりまで」 召天者記念礼拝

そして今、わたしは、“霊”に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。 しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。
(使徒20章22~24節)

 召天者名簿に、大野一夫牧師のお名前が加えられました。病を抱えながら、最晩年、家庭集会で福音を語ることに熱意を注がれた姿が、24節のことばに重なります。
 この聖句は、使徒パウロの遺言ともいえるメッセージの一部です。長い間の伝道の働きに区切りをつけ、エルサレムを経てローマへ向かおうとしています。それは神に示された道でしたが、決して平穏な道ではありません。むしろ苦悩と困難が待ち受けている道です(22~23節)。聖霊に「促されて(22節)」とは、直訳では「束縛されて」という意味です。どんな苦難があったとしても、神が定めた道を行くほかないのです。
 「自分の決められた道を走りとおし(24節)」とは、「自分の走るコースを終わりまで行く」という意味です。与えられた道を、自分に与えられた行程としてまっとうしよう、というパウロの決意が示されています。「命すら惜しいと思いません」とは、直訳では「自分の命のことは言うに値しない」となります。生きるかどうかをあれこれ言うより、神様から与えられた道をとにかく行けるところまでいこう、ということでしょうか。
 パウロは、「福音を力強く証しする」人生をまっとうしました。しかし、読みようによっては、「自分の決められた道を走りとおす」ことがすなわち「神の恵みの福音を力強く証しする」ことだ、と受けとることもできます。
 きょう覚える信仰の先達も、それぞれに与えられた道を終わりまで、行けるところまで行きました。それが福音の証として用いられ、わたしたちに示されています。私たちもそれぞれに与えられた自分の道があります。何が待ち受けているかわかりませんが、その道を終わりまでいくことが、福音を証しするつとめをはたすこととなるのでしょう。

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