カテゴリー「説教要旨」の記事

2020年7月 4日 (土)

6月8日「新しい自分」

ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。(ローマの信徒への手紙7章4~6節)
 
 「コロナ後」の社会は、これまでとは異なるものとなっていくでしょう。政府は「新しい生活様式 ニュー・ライフ・スタイル」と称して「人との間隔をあける」「マスク・手洗いをする」などと勧めています。しかし「ライフスタイル」をいうなら、この社会の価値観や、これまでのひとりひとりの生き方といった、もっと深く本質的な点から変えていくべきでしょう。
 なにか大きなできごとに出会ったとしても、それをどれほどの深さでうけとめるかで、そのできごとの意味が定まってきます。表面的な浅いレベルで終わってしまうのか、これまでの生き方・ライフスタイルや、心の内までが変わるのかで、そのできごとが人生のだいじな出会いになるのか、ひとつのエピソードに終わるかが決まってくるのです。
 「卒業信者」という言い方があります。洗礼を受けたのに教会を離れてしまった人の中には、教会をも「よい思い出」のひとつとしてキリスト教を「卒業」してしまう人がいます。洗礼のできごとを深く受けとめることなく、浅いレベルで終わってしまったようです。
 パウロは、洗礼の意味を、キリストの死と復活にあずかることだと記します。それは人生が、その前後でがらっと変わってしまう、決定的なできごとだということです。パウロにとって洗礼は、それほどの深い大きなできごとでした。
 「罪へ誘う欲情が律法によって働く」(5節)というのは、一般論というよりむしろパウロ自身の体験だったのでしょう。キリストと出会い、洗礼を受けることによって、パウロは律法からの解放を味わい、キリストに生きる新しい自分となったのでした。
 「『わかる』とは『かわる』ことだ」と言います。新しい自分にかわるほどに、キリストとそのできごとが「わかる」ことを望みましょう。

2020年6月27日 (土)

6月21日「復活を生きる」

このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。(ローマの信徒への手紙6章11~14節)
 パウロは、「恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても無罪の判決が下される」(5章16節)と記しました。「じゃあ、何をしてもいいのか?」という疑問が生じます。どんなに多くの罪もゆるされるなら、罪など気にせず好きにふるまっていいのでしょうか。
 それに対してパウロは、「決してそんなことはない。私たちは洗礼を受けているではないか」と答えるのです(6章2~3節)。
 キリスト教の洗礼は、一度きり、イエス・キリストの名によって行われます。それは、ただ一度のイエス・キリストの死にあずかり、復活の命に生きることを意味します(4節)。洗礼はもともと全身を水に沈めて行われるものでした。それは、キリストといっしょに死と復活を体験することです。
 パウロは、洗礼によってあなたがたは罪に対して死に、「キリスト・イエスの中で神に生きる(11節直訳)」と記します。「神に生きる」とは、「神との関係で」「神の前で」「神のために」といった意味です。洗礼によって罪の自分は死に、神とつながり、神のために、神の前で生きるものとなったのです。
 小説『ああ無情』の主人公ジャン・バルジャンは、罪を許す大きな愛に触れて、罪の自分が死に、神に生きるものとなりました。パウロ自身も、キリストとの劇的な出会いによって洗礼を受け、以後は全く違う人生をたどることになりました。けれども、私たち皆が洗礼によってそんな劇的な変化をとげるわけではありません。それでもパウロは、「自分自身を神に献げなさい。罪はあなたがたを支配することはない。あなたがたは恵みのもとにいる(13~14節)」と記します。これは洗礼を受けた私たちへの「大丈夫、あなたはもう恵みのもとにいるのだ、きっと神に生きるものとなる」という促しであり、励ましです。洗礼によって与えられた新しい命、キリストの復活の命を大切に受け止めましょう。

 

2020年6月20日 (土)

6月14日「どんなに多くの罪よりも」

しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。(ローマの信徒への手紙5章15~17節)
 
 聖書で「罪」をあらわす語はいくつかありますが、今日の個所ではおもに「パラプトーマ」という語が用いられています。これは「過ち」と訳されることもあり、具体的なまちがった行為やふるまいをあらわします。
 パウロは、「多くの過ちがあっても義と認められる(15節 聖書協会共同訳)」と記します。これは、パウロ自身のことではないでしょうか。若い頃のパウロは、過ちを犯すことのないよう、律法を学び熱心に従いました。しかしその結果、教会を迫害し多くの人を苦しめたのです。突然キリストに出会ったとき、パウロは自分のあやまちを知り、罪をつきつけられました。けれどもそれとともに、キリストによって「無罪の判決がくだされる(15節)」と確信し、キリストに捕らえられ、世を支配するキリストの働きにあずかるものとされました。「神の恵みと義の賜物とを豊かに受け・・・キリストを通して生き、支配するように(17節)」なったのです。
 過ちを犯さない人はいません。人生をかえりみるとき、かつての過ちに日夜苦しめられることがあります。
 若い頃の過ちから罪の思いを抱え続けた方がいました。亡くなる三日前、病床で洗礼を受け、「アーメン」と祈ったとき「このことばを、どんなに言いたかったか」と涙されました。人生を通して負い続けた、かつての過ちの苦悩から、キリストによって解放されたと信じます。
 今年度の教会の主題を、5章3~5節により「苦難から希望を」と掲げました。「苦難」には、自身の過ちがもたらす苦悩も含まれるでしょう。自分の罪がもたらした過ちに絶望し、死へと向かうような苦悩があります。しかし、神の愛は、その苦しみに、絶望ではなく希望を生じさせ、命に導く奇跡をもたらすのです。自分の過ちにではなく、義としてくださるキリストに目をむけましょう。

2020年6月13日 (土)

6月7日「思い出す人々」 教会創立記念日礼拝

 ケンクレアイの教会の奉仕者でもある、わたしたちの姉妹フェベを紹介します。どうか、聖なる者たちにふさわしく、また、主に結ばれている者らしく彼女を迎え入れ、あなたがたの助けを必要とするなら、どんなことでも助けてあげてください。彼女は多くの人々の援助者、特にわたしの援助者です。キリスト・イエスに結ばれてわたしの協力者となっている、プリスカとアキラによろしく。命がけでわたしの命を守ってくれたこの人たちに、わたしだけでなく、異邦人のすべての教会が感謝しています。また、彼らの家に集まる教会の人々にもよろしく伝えてください。わたしの愛するエパイネトによろしく。彼はアジア州でキリストに献げられた初穂です。あなたがたのために非常に苦労したマリアによろしく。わたしの同胞で、一緒に捕らわれの身となったことのある、アンドロニコとユニアスによろしく。この二人は使徒たちの中で目立っており、わたしより前にキリストを信じる者になりました。(ローマの信徒への手紙16章1~7節)
 
 16章には多くの人々の名前が挙げられています。これは当時の教会のようすをうかがわせる貴重な資料でもあります。
 1~2節で紹介されているフェベは、教会の重要な役割を担った女性で、この手紙を持参した人物です。3節の「プリスカとアキラ」は、パウロと協力して大きな働きを担った夫妻です。妻プリスカの名前が先に記されているのは、それだけ彼女の働きが顕著だったのでしょう。最古参の信徒エパイネト(5節)や教会のために苦労したマリア(6節)の名が挙げられます。7節の「ユニアス」については、近年、これは「ユニア」と読むべきで、当時の教会で「使徒」に数えられた女性と考えられるようになっています。
 8節以下も含め、ここから明らかになってくるのは、当時の教会での女性たちの活躍ぶりです。内村鑑三は、当時の男尊女卑の社会にあって、これは「福音の革命的性質」のあらわれだと指摘しています。
 近年の研究では、ここに挙げられた人々の多くは、当時の社会の中では低い身分の人々だったと考えられています。しかし、社会における身分・地位・性別・財産・職業とは関係なく教会の交わりが形作られていました。それは地理的制約をも超え、遠くの教会とも親しい交わりを結んでいました。
 この手紙が教会に届くと皆の前で朗読されたことでしょう。ひとりひとりの名前が読まれると、その人がかかわった教会のできごともまた思い起こされたことでしょう。一人ひとりの信仰の歩みに教会の歩みが重なっているのです。
 今日は教会創立記念日礼拝です。これまで教会の歩みに連なり、信仰の歩みを重ねたひとりひとりを覚えましょう。今日はまた教会総会を行います。教会が、この時代にあって「福音の革命的性質」を表す群れとして歩むようこころざしましょう。

2020年6月 6日 (土)

5月31日「アッバ、父よ」 ペンテコステ礼拝

それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。(ローマの信徒への手紙8章12~17節) 
 今日は聖霊降臨を記念するペンテコステ礼拝です。
 聖霊の働きとして、パウロは「この霊によってわたしたちは『アッバ、父よ』と呼ぶ」と記します。「アッバ」とは、主イエスや弟子たちがふだん話していたアラム語で、幼児が父親を呼ぶときの「とうちゃん」という語です。主イエスは神にそんなふうに呼びかけ、弟子たちにもそうするように教えました。
 新約聖書はギリシア語で書かれました。聖書にギリシア語で「父よ」と記されている個所のいくつかは、もともとはアラム語の「アッバ」であったと考えられています。のちの教会は、主イエスから教えられたように、神に「アッバ」とよびかけて祈りました。パウロもそれを踏まえて記しているのです。
 神の子キリストは、神を親しく「アッバ」と呼び、私たちにもそうするよう促しました。被造物に過ぎない私たちも、ふしぎにも神の子キリストと同じように「神の子ども」とされ、ほんとうの神の子のように生きるのです。そういうふしぎをもたらすのが神の力、聖霊なのです。
パウロは、この8章では、これまでの生き方を「肉」で表し、神の子としての生き方を「霊」と言い表しています。そして17節では、神の子とされる意味として、神の栄光を受けるだけでなく、「キリストと共に苦しむ」ことをも与えられると言っています。
 じつは、聖書で、主イエスご自身が「アッバ」と呼んだことが直接記されているのはマルコ14章36節のゲツセマネの場面だけです。聖書は、ここだけは主イエスの生のことばを訳さずに記しています。主イエスは、受難を前にしてもっとも悩み苦しんだ時、神に「アッバ、とうちゃん!」と呼びかけ祈ったのです。神の子にとって、神とはそういう方なのです。私たちも、悩み苦しむときにこそ、聖霊によってキリストと共に「アッバ、とうちゃん!」と呼ぶのです。

2020年5月30日 (土)

5月24日「信じる理由」

彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。だからまた、それが彼の義と認められたわけです。しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。(ローマの信徒への手紙4章18~25節) 
 インターネットの時代となり、根拠のないまちがった情報も確かな情報も区別なく広まるようになってしまっています。いったい何を信じていいのか、ほんとうに信じられるのか、信じる根拠をよくよく確かめなければなりません。そんな私たちにとって、「信じる」とはどういうことでしょうか。
 パウロは、信仰の手本としてアブラハムを示します。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた(4:3)」という句は創世記15:6の引用です。アブラハムは、子の無いまますでに年老いていたにもかかわらず、「子孫が星のように増え広がる」という神のことばを信じたのです。ありえないような希望を約束する神をアブラハムはなぜ信じたのでしょう。
 根拠は何もありません。根拠のないまま信じました。それが信仰です。
 わたしたちは、ことがらについては、信じられるかどうか根拠を確かめ、信じるに足る理由を追求します。しかし、人について、信じるか信じないかを問われるとき、その理由をどこまで確かめることができるでしょうか。
 NHKのドラマ「エール」で、主人公が結婚の約束をしたとき、周囲が「相手は財産めあてでは」とあやしむと、父親が「大丈夫だ、会えばわかる」とかばいました。客観的・合理的な根拠はなくても信じるのです。人を、人格を信じるとは、そういうやりかたによるのではないでしょうか。
神を信じるのも同じです。根拠を確かめて信じるのではなく、「会えばわかる」と、理由なく信じるのです。アブラハムは、そのように神を信じ、「義と認められた」、つまり、よしとされたのです。
 パウロ自身もそうでした。キリストに会い、ただそれゆえに信じるものとなったのです。それによって自分はよしとされたのだ、それがパウロの信仰でした。キリストと会った、会えばわかる、それが私たちの信じる理由です。

2020年5月23日 (土)

5月17日 「正しい者」

では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。
「正しい者はいない。一人もいない。
悟る者もなく、神を探し求める者もいない。
皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。
善を行う者はいない。ただの一人もいない。
彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。
口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。
彼らは平和の道を知らない。
彼らの目には神への畏れがない。」
(ローマの信徒への手紙3章9~18節) 
 「非常事態宣言」によって「自粛」が要請される中、「自粛していない」と非難攻撃する「自粛警察」といわれる動きが報じられています。戦争中の国策に従わない「非国民」への迫害や、関東大震災の際の「自警団」による朝鮮人殺害事件が思い起こされます。いずれも、権威ある「正しさ」を背負ってのふるまいです。「正しさ」をふりかざすとき、恐ろしい罪、醜い悪があらわれます。「正しさ」を背負う者が「正しい者」とは限らないのです。
 パウロは、律法という「正しさ」を背負うと自負するユダヤ人も決して「正しい者」ではない、と厳しく指摘します。10節以下で、旧約聖書から引用した痛烈なことばを並べていますが、神のことばとして絶対に「正しい」聖書の文言に、ユダヤ人は反論できないことを意図しているのでしょう。
 人は、危機の中でよりどころを求めて権威ある正しさにすがり、そしてそれを確かめるように他者を批判攻撃するのでしょう。「正しい者」となることで不安を解消しようとするのです。
 しかし、不安と恐れをとりのぞくのは、自分が正しい者となることによるのではなく、神のみわざによるのです。今年度の教会の主題に掲げたように、神は、苦難から希望を生じさせる方です(5章3節以下)。不安と恐れをもたらす苦難の中でも、ふしぎにも希望を生じさせるのが、神の愛です。愛を注がれて、希望が生じるのです。
 3世紀、ローマ帝国を襲った疫病は、キリスト教が広がるきっかけとなったといいます。感染の危険に身をさらしても病人の看病につとめたキリスト者たちの愛のわざが、人々の心をとらえたのです。
 今、正しさよりも、愛を求めましょう。正しい者であることよりも、むしろ正しくない者をも生かす神の愛によって生きることを求めましょう。

2020年5月16日 (土)

5月10日「神の憐みを知る」

 だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。(ローマの信徒への手紙2章1~9節) 
 パウロは、信仰について論じはじめますが、まず神を信じない罪を指摘します。どんな人間でも、この世界を見れば神の存在とそのみこころがわかるはずだ(1:20)、それなのに神を認めず無視した結果、人間の社会に罪と悪がはびこっている(1:28~32)、というのです。
 これを読んだ手紙の読者、つまりローマの信徒たちは、「そうだ、神を信じないことが罪を悪をもたらすのだ」「我々は神を信じているのだから、こういう人々とは違う」と思ったでしょうか。しかしパウロは、思いもよらないことに「あなたも同じことをしている」(2:1,3)というのです。
 「同じこと」とは何でしょうか。具体的な悪いふるまいというより、むしろ「人を裁く」ことにおいて、自分が神になりかわって裁き主の立場に立っていること、そうやって神をないがしろにしていることではないでしょうか。
 今の社会では、「裁く」、つまり、人の価値を定めていくことが当然のようになされます。裁きの矛先はけっきょく自分自身にも向けられて苦しみをもたらしています。わたしたちには、「裁く」以外の道はないのでしょうか。
パウロは、「神の憐みが、悔い改めに導く(4節)」と示します。神は正しさと厳しさをもって裁くだけではなく、深い憐れみをもって悔い改めをもたらす方でもあるのです。
 裁きは「自分は正しい」ことが前提ですが、悔い改めは「自分は正しくなかった」ことの告白です。主イエス・キリストは、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣べ伝えました。自分の正しさを神の支配にあけわたすことが、福音の始まりです。人を裁く正しさを追い求めるのではなく、わたしを悔い改めに導く神の深い憐れみを知ることを求めましょう。そのとき、ふしぎにも私たちは「信仰によって生きる」正しい者とされるでしょう(1:17)。

2020年5月 9日 (土)

5月3日「力になりたい」

 わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証ししてくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています。あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。(ローマの信徒への手紙1章9~12節) 
  今の状況の中、しばらくローマの信徒への手紙をかいつまんで読みながら福音のメッセージを聞きたいと思います。
  パウロは、ローマ在住のキリスト者たちにあてて、これからそちらに行きたいという希望を伝える手紙を書き送りました。ローマに行く理由として、「会って、あなたがたの力になりたい、いや、互いに励ましあいたい」(11~12節)と述べます。信仰者どうしで顔を合わせて賜物を分ちあい、力づけられ、励ましあう、信仰の交わりの理想的なありかたが示されています。
  そんなふうに会って励ましあうことの意味や大切さを、いま私たちは思い知らされています。会うことができないのは、どんなに寂しく心細いことでしょう。とくに、力づけられ励まされる必要のある人ほど、会うことが難しくなってしまっているのが現実です。
  先週、Kさんが天に召されました。感染症予防のためにと、病院で面会ができなくなり、ご生涯の最後の日々、いちばん支えが必要なときに力になることができませんでした。
  パウロは、ローマ行きがかなわない状況の中で、いつかローマに行く機会が与えられるよう祈りつづけました(9~10節)。私たちも、今この日々に、いつかまた会って励ましあうことができるようにと祈り続けましょう。神さまはその祈りを聞いていてくださいます。
  もうひとつ、パウロがしたことが、手紙を書くことです。直接会うことができなくても、自分に与えられた賜物をわかちあい、ローマの信徒たちの力になるようにと、せいいっぱいの思いを手紙にまとめて書き送りました。それが、今日まで多くの信仰者たちの力になってきているのです。私たちも、せいいっぱいの思いを送りあって励ましあいましょう。

 

2020年5月 2日 (土)

4月26日 「苦難から希望を」

このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。(ローマの信徒への手紙5章1~5節)
 
 「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」という句はよく知られています。「苦難に耐えれば、きっと希望がうまれる」ということでしょうか。
 「苦しさに耐えてがんばれば、きっとうまくいく」という考えは、日本では明治以降に定着し、日本の近代化や戦後の高度経済成長を支えてきました。しかしそれは裏返せば、「人生がうまくいかないのは、本人の努力が足りないからだ」という冷たい自己責任論となり、多くの人を苦しめてきました。聖書が「苦難は・・・希望を生む」というのも、けっきょく同じことなのでしょうか。
 このことばを記したのは使徒パウロです。晩年になって、それまでの苦難に満ちた生涯を振り返って、このことばを記しています。数多い苦難をかえりみるときに、しかし、彼は、ふしぎにもそうした苦難から絶望や後悔、恨みや不満ではなく、希望が生じた、とふりかえっているのです。
 このふしぎをもたらしたのは、神の愛です(5節)。主イエス・キリストによって、神との間には平和が与えられていますから(1節)、どんな苦難も神のさばきや罰ではないかとおびえることはありません。かえって、「神の栄光にあずかる誇り」(2節)が与えられています。つまり、自分は神のものとされていることを信じて喜んでいるのです。自分の努力ではなく、神の愛が、苦難から希望を生じるというふしぎをもたらしたのです。
 そのことは、パウロ一人の経験ではありません。パウロと共に、そのことを「わたしたちは知っているのです(3節)」。
 いま、わたしたちは、大きな苦難の中にあります。社会も教会も、多くの困難や苦悩を抱えています。しかし、わたしたちは知っています、神はわたしたちを愛し、この苦難の中に希望を生じさせることができるのです。
 このことを信じ、今年度の教会の歩みの主題としたいと思います。

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