カテゴリー「説教要旨」の記事

2019年7月20日 (土)

7月14日 「招かれてひとつ」

そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。(エフェソの信徒への手紙4章1~6節)
 教会には、じつにさまざまな人々が集まっています。年齢も違い、経歴も社会的立場も異なります。負っている人生の重荷も、教会に来たきっかけも、聖書の読み方や信仰生活のスタイルもそれぞれです。
 自分にとって好ましい人ばかりが来ているわけではありません。だれがこの教会に来るのか、目に見える条件はありません。なぜか、この顔ぶれのひとりひとりがふしぎにもここに来るようになったのです。
 それを聖書は「招かれた」と表現します。神が、なぜか、この人たちひとりひとりを招いて、ここに、いっしょの席に着かせたのです。だから、神に招かれた人のことを、拒んだりさげすんだり、退けたりすることはできません。神の招きを、大切に受けとめるのです。
 しかし、それは決して簡単ではありません。自分とはあまりに違う人と出会い、いっしょに過ごすのは、時に大きなストレスです。どうしても共感できず、考えを共有できず、隔てを生じ、食い違い、対立し、遠ざかってしまうのです。
 けれども、「一つ」ということは、「同じ」ということではありません。招かれた者たちは、同じだから招かれたのではありません。ただひとつ、共通なのは、「神に招かれている」「神によってここに存在している」ということです。その一点が、希望です。神がいっしょにしてくださったのだから、この人とさえいっしょになれる、と信じるのです。
 教会の中だけではありません。違う者たちがそれでもいっしょになって、互いの存在を大切にし、共に生きていくのは、この社会の大きな課題です。教会は、この世にあって、違う者がいっしょに生きていく希望の姿を示していく使命があるのです。
 

 

2019年7月13日 (土)

7月7日 「わかってくれたら」

こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。(エフェソの信徒への手紙3章14~19節)

 「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ(18節)」とは何を表すのでしょう。
 「広い愛」は「狭い愛」の反対だと考えると、相手を限定せず、どんな人もとりのこすことのない愛のことでしょうか。
 「深い愛」は、「心にしみる愛」「思慮深い愛」「どんな状況でも揺るがない愛」などの意味でよく使われます。しかし「高い愛」とはふつう言いません。あえて意味を考えれば、天の高みからくる崇高な愛、愛の神聖さのことでしょうか。そして、「深さ」を、このような「高さ」と対比して考えれば、世の中の底辺とされる人々、あるいは人の心のどん底、さらにはもっとも深い罪の奥底にまで及ぶ愛、という意味にとれます。
 「長さ」は、ここでは時間の長さではなく、距離をいう語のようです。「長い愛」とは、目の前の相手だけでなく、遠くにまでおよぶ愛でしょうか。
 こうしたキリストの愛は、「人の知識をはるかに超える(19節)」とほうもなく大きな愛です。こういう愛を、わかってほしい、そしてその豊かさにあずかるように、満たされるように、という切なる祈りがここにあります(14節以下)。
 この祈りは、2章にくわしく述べられている「キリストの体」「神の家族」「神の住まい」としての教会のための祈りです。あなたがたには、キリストの愛を、もっともっとわかってほしい、それをわかってくれたら、あなたたちはその愛にいっそうゆたかに満たされ、愛に根ざし、愛にしっかりと立って、キリストの体として成長し、建てられていくだろうと祈っているのです。
 これは、「あなたがた」のための祈りです。「あなたがた」とは、もちろん、この手紙の当時の読者である教会のことですが、そこには、時を超えて今この手紙を読むわたしたちも含まれています。わたしたちの教会もこの祈りの中におかれているのです。

 

2019年6月29日 (土)

6月23日野外礼拝「こすずめも、くじらも」

主の御名を賛美せよ。主は命じられ、すべてのものは創造された。
主はそれらを世々限りなく立て、越ええない掟を与えられた。
地において主を賛美せよ。海に住む竜よ、深淵よ
火よ、雹よ、雪よ、霧よ
御言葉を成し遂げる嵐よ
山々よ、すべての丘よ
実を結ぶ木よ、杉の林よ
野の獣よ、すべての家畜よ
地を這うものよ、翼ある鳥よ
地上の王よ、諸国の民よ
君主よ、地上の支配者よ
若者よ、おとめよ
老人よ、幼子よ。
主の御名を賛美せよ。主の御名はひとり高く、威光は天地に満ちている。
                    (詩編148編5~13節)

 野外礼拝を予定していましたが、あいにくの天気で外で礼拝ができません。それでも、神さまが創られた天地とそこにあるもの、草木や動物、人間をも思い浮かべて礼拝をささげましょう。
 詩編148編には、神さまが創った天地万物を次々にあげていきます。山や丘、木や獣、そしてさまざまな人間たち。そのすべてが神さまを賛美するようにうながしています。
 この詩編と同じように、創られたものを数えあげている讃美歌が、『こすずめも、くじらも』です。アメリカのヤロスラフ・ヴァイダ牧師が三十数年前に作った歌ですが、讃美歌らしくない斬新な歌詞です。
 2節を直訳します。「地震の神 嵐の神 ラッパの響きの神 創られたものはどのように災いを叫ぶのか、創られたものはどんなふうに救いを叫ぶのか」。「ラッパの響き」は、世の終わりと神の国の到来を告げるしるしです。恐ろしい災いに救いを求める叫びは、神の支配の実現を告げる叫びなのでしょうか。
 3節は「虹の神 十字架の神 からの墓の神」と歌い、人を滅びから救う神のわざを示します。4節は「餓えた者の神 病む者の神 放蕩者の神」とあります。人類社会が、放蕩息子のように神に立ち返るのを神は迎えてくれるでしょう。5節「隣人の神 敵の神 鎌の神」の「鎌」はイザヤ書2章4節「槍を打ち直して鎌とする」を示します。6節はこどもたちが「HOME」を得ることを歌っています。この世界が、未来の世代にとってもかけがえのない「家」「居場所」「ふるさと」であることを示しています。
 神さまが創ったこの世界は、恐ろしい災いや難しい問題をも抱えています。でも、神さまは、この世界こそ、未来の人類にもかけがえのない「HOME」としてくださっているのです。

2019年6月22日 (土)

6月16日「神の家族、神の住まい」

キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。 (エフェソの信徒への手紙2章17~22節)

 今年度の教会の主題は、エフェソ4:16から「成長する体」としています。教会を「体」になぞらえているのですが、教会をほかのものにたとえる表現もあります。今日の箇所の「神の家族」もそのひとつです。
 18節に「御父に近づく」という表現があります。エルサレムの神殿では、身分や立場によって神に近づくことが制限されていました。しかし、主イエスは、誰もが神を「アバ 父」とよんで近づくことができるようにしてくださったのです。わたしたちは神と、親子の親しい交わりを与えられました。そればかりでなく、神との交わりを与えられた者たちが、互いに「神の家族」としてひとつの共同体を形成するのです。
それは当時の教会の人々の実感でした。ローマ帝国の発展にともない、伝統社会が変化して都市に流れ込んできた人々にとって、そこで出会った教会は、新しいきずなをもたらす「家族」だったのです。
 さて、ここではまた教会を建物になぞらえらえています。「主における聖なる神殿となる」とは、やはりエルサレム神殿が念頭にあるでしょう。エルサレムの神殿はローマによって破壊されて失われました。しかし、これからは教会が神の住まい、神殿となる、と宣言しているのです。ひとつひとつの石を積み上げて建物を建設するように、ひとりひとりが集められ組み合わされて教会という神の家族、共同体が建てあげられていくとき、そこが神の神殿となり、人はここで神に近づき、神を礼拝し、神と交わることになるのです。
 「霊の働きによって」(22節)という語は、土の塵で形作られた体に命の息が吹き入れられた創世記の場面や、建物に風のように聖霊が吹き込んだペンテコステのできごとを思わせます。集められた私たちの集いに聖霊が働くとき、教会は生きたキリストの体、神の家族、神の住まいとなるのです。

 

2019年6月15日 (土)

6月9日ペンテコステ礼拝 「聖霊の保証」

キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。
(エフェソの信徒への手紙1章11~14節)
 

 「ペンテコステ」は「五十日」を意味します。もともと、過越の祭から五十日後の収穫感謝の祭でしたが、後のユダヤ教では、イスラエルの民が神と契約を結んで神の民とされたことを記念し感謝する意味も重ねられるようになります。今、キリスト教会では弟子たちの群れに聖霊がくだった「聖霊降臨日」として記念されています。
 13節で「あなたがた」と呼びかけられているのは異邦人キリスト者たちでしょう。これまで、「神の民ではない」「神の国に入ると定められてはいない」とされてきた異邦人たちが、キリストにおいて真理のことばを聞きました。律法を知らず、自分には何もできなくても、神は愛してくださり、救いをもたらすという福音です。それを心から信じて、聖霊の証印を押されたのです。
 「証印」とは、持ち主を示したり品質を保証したりするための印です。神が「これは神のもの」として押す証印とは、洗礼のことと考えられます。
 洗礼を受けたときのことをふりかえってみましょう。何もできず、なさけないほど愚かで小さな自分が、なぜか洗礼に導かれ、「神のもの」とされたのです。これこそ「御心のままにすべてを行われる方のご計画(11節)」であり、聖霊の働きにほかなりません。ペンテコステは、わたしたちにとっても、「神の民とされた」ことを記念し、感謝するときなのです。
 聖霊は、「御国を受け継ぐための保証(14節)」でもあります。「保証」とは「手付」「前払い」のことです。救いの完成、神の国の到来はまだこれからのことだとしても、わたしたちは今ここで、その救いの恵みを味わい、生かされています。それが聖霊のもたらすもの、聖霊の保証にほかなりません。聖霊の恵みを覚えて感謝しましょう。

2019年6月 8日 (土)

6月2日教会創立記念日礼拝「教会は神の計画」

こうして、いろいろの働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになったのですが、これは、神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿うものです。わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。だから、あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです。(エフェソの信徒への手紙3章10~13節)

 50年前、学生紛争の時代、教会も大きな影響を受けました。真剣で激しい論争が起こり、それが厳しい対立や分裂となって痛ましい傷がもたらされました。この時代のつらいできごとが、わたしたちの教会の創立にも大きくかかわっています。
 当時の札幌北光教会でも激しい議論や対立が起こりました。それが牧師・副牧師・伝道師の間の食い違いや対立となり、教会総会で突然、副牧師・伝道師の辞任を求める決議が提出されました。このとき榎本栄次伝道師は「教会はどうあるべきか、神が何を望んでいるかをもっと議論してほしかった」と発言しました。
 やがて教会は分裂し、牧師たちは教会を辞任していきます。その中で榎本栄次牧師は開拓伝道に向かう決断をします。おそらく、北光教会での重くつらい体験を抱え、「教会はどうあるべきか、神が何を望んでいるか」を深く祈り求めながら新しい教会を形作ろうとしていったことでしょう。
 聖書は、神の秘められた計画に沿って、教会によって神の知恵、神の考えが示されたとしています(10~11節)。神の計画とは、これまで神から遠いと退けられてきた異邦人が、ユダヤ人といっしょに共同体を形成し神の救いの約束にあずかるものになる、ということです(6節)。対立し、隔てられていたものが共に神に近づくひとつの群れとなるのです。
 わたしたち札幌北部教会の歩みも、こういう神の計画に沿ったものです。こどもとおとな、障がい者と健常者など、隔てられていたものがひとつとなって神に近づこうとしています。
 紛争の時代に分裂していった教会も、今は共に交わりをもち、互いの礼拝を支えあっています。そこに神のふしぎな計画があるのです。

2019年6月 1日 (土)

5月26日「壁を壊す」

実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。            (エフェソの信徒への手紙2章14~16節)

 30年前、ベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツが統一されました。「隔ての壁を取り壊し、二つのものを一つにする」できごとでした。しかし、むしろ人は隔ての壁を築くことに熱心です。
日本では今、目に見えない壁が築かれています。隣国に対する敵意をあおり、退けようとする心の壁です。隣国だけでなく、社会の中の少数者など、自分と違う者を敵としておとしめ、敵意や嫌悪がむきだしにされています。
 新約聖書の時の「壁」は、ユダヤ人と異邦人の間の敵意でした。律法を大切に守り、神の民としての自己認識を深めたユダヤ人と、奇妙な生活習慣を保ち周囲に妥協しないユダヤ人を排斥する異邦人との間に、敵意という隔ての壁が築かれていたのです。
 しかし、神は、律法によらない新しい共同体を形作るよう導きます。主イエス・キリストの名のもとに集まる教会は、ユダヤ人にも異邦人にも開かれた共同体です。律法は廃棄され、ユダヤ人と異邦人と双方がひとつのキリストの体、共同体を形作るのです。
 しかし、教会は、その後の歩みの中でまた隔ての壁を作ってきてしまっています。さまざまな教派が分立し、今日の日本基督教団のなかにも、さまざまな隔てが生じてしまっています。
 キリストは、十字架によって敵意を滅ぼしました。敵意に対して壁を作って自らを守るのではなく、敵意を身に引き受けて十字架で死に、そして復活によって敵意を無意味にしたのです。
 人は壁を作ります。しかし、神は壁を壊します。わたしたちはこれからも隔ての壁を築いてしまうかもしれません。しかし、敵意という壁を壊してくださる神を信頼し、勇気をもって敵意をのりこえていきたいと思います。
 

2019年5月25日 (土)

5月19日「欲望からの解放」

さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです―― キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。(エフェソの信徒への手紙2章1~7節)

 2015年、国連で「持続可能な開発目標(SDGs)」が定められ、世界各国で取り組むこととなりました。冷戦後の世界を覆う資本主義経済は、人間の欲望を満たすために自由に経済活動を行うことをよしとしています。しかし、このまま経済活動が好き勝手になされていては人類社会は続かない、という危機感を背景にSDGsが定められました。そうした今日の課題を念頭に、きょうの聖書の箇所を読みます。
 1~3節では、欲望のままに行動することが、過ちと罪を犯し、死をもたらすことになるとしています。それが生来の人間のありようなのです。
 2節には「この世を支配する者」「空中に勢力を持つ者」「不従順な者たちのうちに働く霊」とあります。当時の人々は、天地の間には神に逆らい人を惑わすよこしまな霊がうようよしていると考えていました。今日の状況でいえば、人を動かす「欲望」そのもののことと言っていいかもしれません。
 しかし、キリストを復活させた神は、わたしたちを救い出してくださいます(4~6節) 。それは、わたしたちが何かをすることによってではなく、神の恵みとしてもたらされるのです(8~9節)。
 では、SDGsなどの取り組みや努力は無意味なのでしょうか。
 この段落の結論、10節では、わたしたちは神の備えた「よい業」を行うために造られたとあります。わたしたちは、欲望に従って行動するのではなく、神が準備してくださった、みこころにもとづく業を行って歩むのです。
 ここでは「欲望」が消滅するとは書いてありません。欲望は存在しているとしても、わたしたちは欲望の奴隷となって欲望に従うのではなく、欲望から解放されて自由になり、神に従って歩むものとなるのです。わたしたちは、そのようにして死と滅びから救われ、ほんとうに生きるものとなるのです。

2019年5月18日 (土)

5月12日「心の目」

こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。 (エフェソの信徒への手紙1章15~19節)

 芸術家やこどもたちは、目に見える表面的なものの奥に、それを超えたものを見てとる感性を備えています。「心の目」といっていいでしょう。『星の王子さま』に登場するキツネは、王子さまに「かんじんなものは目に見えない」と教えました。「かんじんなもの」とは「真実」であり、「神」ともいえます。
 聖書の神は、見られることを拒む方です。人間によって表面的に、浅はかに理解されることを拒むのです。神を知るには、「かんじんなもの」を見る感性、「心の目」が必要なのです。
 17~18節は、神を深く知るために心の目が開かれるよう祈っています。心の目が開かれると、「どのような希望が与えられているか」「受け継ぐものがどれほど栄光に輝いているか」「神の力がどれほど大きいか」を悟るようになります(18~19節)。今見えている現実、困難や絶望的状況の奥に、神の国の輝き、現実を超える神の力を見て、希望を見出すことができるのです。
 2月に召天された台湾の高俊明牧師は、弾圧の獄中で「サボテンと毛虫」という詩を書きました。とげだらけのサボテンに花が咲き、ぞっとする毛虫が蝶になるように、厳しい現実を超える希望をもたらす神の力を見たのです。
 神の力の大きさは、キリストを死者の中から復活させ(20~21節)、そのキリストを教会に与えて教会をキリストの体、キリストが満ちる場となさいました(22~23節)。わたしたちは、心の目が開かれるとき、復活をもたらす神の力を信じ、そして教会にキリストを見出すのです。
 預言者イザヤは、心の目によって、神の衣のすそが神殿いっぱいに広がっているのを見ました(イザヤ6:1)。わたしたちも、心の目が開かれる時、わたしたち貧しい人間の現実を超える神の力によって、この教会いっぱいにキリストが満ちているのを知るのです。

2019年5月11日 (土)

5月5日「祝福と讃美」

わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。(エフェソの信徒への手紙1章3~7節)

『エフェソの信徒への手紙』の冒頭、挨拶に続いて神をたたえることばが記されます。3~14節は原文では一つの文で、「たたえられますように」という語から始まっています。原語では「エウロゲオー」ですが、これは「よいことばを言う」という意味で、人が神をたたえる「賛美」だけでなく、神から人への「祝福」、さらには名詞形で「贈り物」の意味でも用いられます。3節後半を直訳すると「天のあらゆる霊的な祝福(贈り物)で祝福する」となります。つまり、3節では「エウロゲオー」という語を重ねて、神と人とが「よいことば」をかわしあう、幸いなよい関係を描いているのです。
 その「祝福」「贈り物」とは、具体的には「神がわたしたちをご自分の子にしようと選び、定めてくださった(4~5節)」ということです。これは、「わたしたちキリスト者は選ばれた存在だ」といった優越感を表しているのではありません。他の人と何も違わないのに、なぜかわたしたちはキリストにつながり、教会に加わり、信仰の道を歩むようになりました。それはわたしたちが選んだのではなく、なぜか神がそう定めたとしかいいようのない人生のふしぎです。わたしたちはそれを神の祝福、贈り物とうけとめて神をたたえるのです。
 さて、6節にも「たたえる」とありますが、これは原語では「エウロゲオー」とは別の語です。同じ語が12節・16節にもあり、「神の栄光をたたえるため」という句が繰り返されています。よく読むと、いずれも「栄光をたたえるために」として、約束された神の御国をうけつぐ希望を語っています。
 わたしたちは、なぜかキリストによって神と結ばれ、教会に集い、神の子としての将来の希望を与えられました。今はわたしたちは個人的にも、また教会も、まだまだ問題を多く抱えています。しかし、将来の希望を信じ、神の栄光をたたえるに至る道をたどっているのです。 
 

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