カテゴリー「説教要旨」の記事

2018年1月13日 (土)

1月7日「解放の始まり」

イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」
イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。(ルカ4章16~21節)

 故郷ナザレの会堂での集会に出席した主イエスに、イザヤ書が渡されました。巻物を開くと、イザヤ書61章の冒頭部分が「目に留まった(17節)」のでした。
 イザヤ書のこの箇所は、国を失って捕囚とされ、貧しく、束縛と抑圧に苦しんでいるユダヤの人々に向けて解放の希望を告げたことばです。
 ここで「主の恵みの年」とあるのは、律法で定められた50年に一度の「ヨベルの年」のことです。「ヨベルの年」には、売り渡された土地は元の持ち主に返され、借金は帳消しになり、奴隷は解放される定めでした。貧富の格差に苦しむ人々が解放され、社会が本来のあるべき姿に戻されるのが「ヨベルの年」です。イザヤ書は、苦難の中の人々に、本来のあるべき姿が回復される時がくるという希望を告げたのです。
 イザヤ書61章の冒頭は、この解放の希望を告げる使命が「わたし」に与えられた、という預言者の自覚をはっきり述べている箇所です。主イエスは、ナザレの会堂で、まさにここに目を留めて、ご自分の使命をはっきり自覚されたのではなかったでしょうか。「このことばは今日実現した」とは、解放を告げるご自身の使命が今から始まるという宣言だったのです。
 解放を告げるために主イエス・キリストがわたしたちのところに確かに遣わされました。今に続く、主イエスの働きは、あの時から始まったのです。
 しかし、主イエスのことばは故郷に受け入れられません。恐ろしい弾圧が迫る中、ふしぎにも主イエスはそのまっただなかを通って歩んで行かれました。主イエスの伝える解放の福音は、まさにそのようにして世界へと進んでいきました。困難の中でなお解放を告げる働きそのものが、解放の始まりとなっていくのです。

2017年12月30日 (土)

12月24日 「飼い葉桶」

そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。   (ルカ2章1~7節)

 「キリストは馬小屋に生まれた」とよく言われます。しかし、聖書には「馬小屋」のことは書いてありません。ただ「飼い葉桶」に寝かされたことにはこだわっています(7節、12節、16節)。
 マリアとヨセフは、はじめから赤ちゃんを飼い葉桶に寝かすつもりだったのではありません。彼らは、「自分の町」ベツレヘムに帰ってきたのに、そこに居場所を見出すことができなかったのです。「宿屋(7節)」の語は「客間」の意味もあり、ほっとくつろぐ居場所を意味します。しかし、彼らの場所はありませんでした。生まれた子のために見出すことができた居場所は、狭く、小さく、堅い飼い葉桶だけだったのです。
 飼い葉桶には、家畜のにおいがしみついていたでしょう。赤ちゃんは、おむつと服と毛布をかねた布に包まれ、お乳とうんちとおしっこのにおいにまみれていたでしょう。
 さて、町の外で、羊飼いたちに救い主の誕生が告げられます。羊飼いたちにとって飼い葉桶はなじみ深いものです。彼らは、すぐに飼い葉桶を探しあてました。羊飼いたちは、貧しく、町場の人々からは軽んじられていた人々です。しかし、町の中には場所がなかった彼らは、飼い葉桶の救い主が自分たちと同じにおいをしていることに気付いたでしょう。
 ただし、「ベツレヘムの羊飼い」には特別の意味があります。かつてのダビデ大王ももとはベツレヘムの羊飼いでしたが、「油注がれた者(メシア、キリスト)」とされました。のちに王となったダビデが人口調査を企てて神にとがめられたことが伝えられています(サムエル記下24章)。千年の後、やはり権力者の人口調査の企てのもと、しかし「油注がれた者」は、飼い葉桶においでなりました。私たちは権力のもとではなく飼い葉桶の中に、わたしたちと同じにおいにまみれた救い主を見出すのです。

2017年12月16日 (土)

12月10日 「お言葉どおり、この身に」

六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。   (ルカ1章26~38節)

 天使が現れ、マリアが幼子を産むことを告げました。婚約者がありながら父の知れない子を産むことは、律法で厳しく罰せられることでしたから、これはマリアにとってはいわば死刑宣告にも等しいむごい知らせです。とても、「おめでたい」とも「恵まれた」とも思えません。
 マリアはおもわず「どうして」と尋ねます。これには「どうやって」という問いと「なぜ」という問いが含まれています。天使は前者の問いには「神にできないことはない」と答えましたが、後者の問いには答を与えません。
 それでもマリアは、もはや「なぜ」と問わず、「お言葉どおり、この身に成りますように」と答えます。直訳すると「それが起こりますように、わたしに、あなたの言葉どおり」となります。ある英語訳聖書では「それが起こりますように」の部分を「let it be」と訳しています。
 ビートルズの名曲「Let it be(レット・イット・ビー)」は、「母マリアが知恵のことばを語る、let it be」と歌っています。この「let it be」は、しばしば「なるがまま」「なりゆきにまかせ」などと解釈されますが、もともとのマリアの「let it be」は、決してそうした消極的な意味ではなく、神のことば、すなわち神の意志、神の計画が実現することを信じ、それを自分自身の身に引き受けるという静かな深い決断、覚悟を含むことばです。 
 神は、ときに理不尽で残酷な運命をもたらし、苦悩や困難をもたらすかもしれません。なぜなのかも知らされません。それでも、その厳しい運命を「おめでとう」と祝福し、「あなたは恵まれた」と告げ、「共にいる」と約束してくださる主を信頼し、ふりかかるできごとを自身の身に引き受ける決断をするのです。
 大野一夫牧師は、病の苦悩を静かにその身に引き受けておられました。私たちは、大野先生との別れの悲しみを身に引き受けるのです。

2017年12月 9日 (土)

12月3日 「この事の起こる日まで」

天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」そこで、ザカリアは天使に言った。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」天使は答えた。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」  (ルカによる福音書 1章13~20節)

 これからルカ福音書を読んでいきます。ルカは、主イエスの誕生に先立って、洗礼者ヨハネの誕生のいきさつを長々と記します。キリストのできごとを、神がいかに計画的に準備されたか、印象づけられます。
 ヨハネの両親はザカリアとエリサベトですが、二人にはずっと子がありませんでした。ザカリアは祭司でしたが、彼のような一般の祭司は、ふだん一般人と変わらない生活をしていて、くじびきにあたれば一生に一度、エルサレムの神殿で祭司のつとめにつくことがあったといいます。ザカリアにも、年老いてようやくその機会がめぐってきました。しかし彼は一生に一度のつとめを最後まで果たすことができなかったのです。
 神殿の奥でザカリアが儀式を行っていると天使が現れて、ザカリア夫妻に子が与えられることを告げます。しかし、ザカリアは思わず「何によって知ることができるか」と聞き返しました。証拠があるだろうか、というのです。けれども、天使が遣わされ、喜ばしい知らせが告げられたことじたいが証拠、しるしにほかなりませんでした。この神からの「ことば」を信じず、しるしを受けとめられなかったザカリアは、ことばを使うことができなくなります。それは、祭司として人々に祝福を述べるつとめができなくなったということでもありました。
 つらい現実が変えられ、あきらめていた喜びがもたらされるときが来る、ということば、思いがけない知らせじたいが、わたしたちに与えられているしるしなのです。クリスマスは、過去のキリストの到来を覚えることを通して、将来の主の再臨を信じ待ち望む思いを深めるときです。私たちに告げられている、将来へのしらせを受けとめられなければ、私たちも他者への祝福をもたらすことはできなくなってしまうでしょう。私たちは、この事の起こる日、神のことばが実現するその日を、信じて待ち望むのです。

2017年12月 2日 (土)

11月26日 「苦難の後に」

主はこのようにヨブに語ってから、テマン人エリファズに仰せになった。「わたしはお前とお前の二人の友人に対して怒っている。お前たちは、わたしについてわたしの僕ヨブのように正しく語らなかったからだ。しかし今、雄牛と雄羊を七頭ずつわたしの僕ヨブのところに引いて行き、自分のためにいけにえをささげれば、わたしの僕ヨブはお前たちのために祈ってくれるであろう。わたしはそれを受け入れる。お前たちはわたしの僕ヨブのようにわたしについて正しく語らなかったのだが、お前たちに罰を与えないことにしよう。」
テマン人エリファズ、シュア人ビルダド、ナアマ人ツォファルは行って、主が言われたことを実行した。そして、主はヨブの祈りを受け入れられた。ヨブが友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元の境遇に戻し、更に財産を二倍にされた。(ヨブ記42:7~10)

 苦難にあって財産もこどもたちも失ったヨブは、最後に元の境遇に戻されました。しかし、元通りになっただけだったでしょうか。
 神は、ヨブに現れて語った後で、すぐ彼を元に戻したのではありません。神は友人たちに、ヨブに祈ってもらうよう命じます。ヨブ自身はまだ苦しい境遇にありましたが、彼らのためにとりなし祈ると、苦難から解放されたのです。
 ヨブは、苦難にあう前も祈っていましたが、それは自分の子どもたちのため、犯したかどうかもわからない罪のためでした(1:5)。けれども、苦難にあったヨブは、自分と厳しくやりあった他者のためにとりなし祈ることを求められたのです。重く、複雑な思いで、祈ることの難しさを覚えながらの真剣な祈りの後、思いがけなくも苦しみが終わったのでした。
 さてその後、多くの人々がヨブのもとを訪れ、食事を共にして彼を慰めます。(42:11)。苦難の前のヨブの生活には、家族・使用人以外の人々との交わりは描かれていません。苦難の後、はじめてヨブに他者とのゆたかな交わりが与えられたようです。
 また、ヨブは新しく与えられた娘たちを息子同様に尊重し(15節)、いっぽう、かつてのように使用人(奴隷)を再び所有したということは書いてありません。苦難の前から神をおそれ、罪を避けて、自分が正しくあることにこだわってきたヨブでしたが、苦難の後に、他者のために祈り、尊重し、共に生きるものへ導かれました。ここに苦難の意味があったといえないでしょうか。
 さらにまた聖書全体を通してみれば、苦難の中でとりなしを祈ったヨブの姿ははるかに十字架のキリストを指し示すものと読むこともできます。回復された彼のもとに人々が集って食事を共にし、新しく息子・娘とされた皆が分け隔てなく賜物を与えられるようすに、教会のイメージをも重ねるのです。

2017年11月25日 (土)

11月19日 「答えてみよ」

主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。
これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて神の経綸を暗くするとは。
男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。
わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。
知っていたというなら理解していることを言ってみよ。

                (ヨブ記38章1~4節)

 苦難にあったヨブは、友人との論争のはてに、神との直接対決を望むに至ります(31:35以下)。人間たちの議論はもはや行き詰まったようです。
 そこに突然、主なる神が登場します。それなのにヨブは思いのたけを直接神に訴えることなく、かえって語るのをやめてしまいます(40:1~5)。ヨブはなぜ口をとざしてしまったのでしょうか。
 ヨブの前に登場した神は、ご自身の天地創造のわざを語りだします。造られた天地とそのさまざまな現象、また多くの生き物の営み、さらにはベヘモットやレビヤタンといった、人間には手なずけることもできない恐ろしい存在も、神の御手のわざであることが示されます。
 神がお造りになったこの世界は、人間の罪とか裁きとか祝福とかを超えた、神の御心とはからいの中にあることを示され、ヨブは自分の苦悩がほどける思いをしたのでしょうか。
 あるいは、神が現われてくださったこと自体が、ヨブにとっての答となったのでしょうか。天地を創造された神が、とるにたりないヨブを心にとめ、彼ひとりのために現れ、語りかけてくださったのです。
 ところで、神は、ヨブの問い、ヨブの疑問に答えてくれたわけではありません。かえって神がヨブに「答えてみよ」と問いただしたのです(38:3)。
 ナチスの収容所を生き延びたフランクルは、「我々が人生の意味を問うのではない。我々が人生から問われている」と語っています。神に苦難の意味を問いただそうとしていたヨブですが、かえって神から「答えてみよ」と問われている自分を見出したとき、もはや問うことをやめたのです。
 私たちもまた、「答えてみよ」との問いかけを聞くでしょうか。
 

2017年11月11日 (土)

11月5日 「塵の上に立つ方」

わたしは知っている
わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。
この皮膚が損なわれようとも、この身をもってわたしは神を仰ぎ見るであろう。
このわたしが仰ぎ見る
ほかならぬこの目で見る。
腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る。
(ヨブ19章25~27節)

 1600年前、聖書をラテン語に訳したヒエロニムスは、この箇所を「私をあがなう方は生きておられ、終わりの日に私は地からよみがえり、再び皮膚をまとってわが身において神を仰ぎみるであろう」という意味に訳しました。ヨブは、キリストを信じる者の復活を預言している、と読みとったのです。
 しかし正確には、原文では「地(塵)の上に立つ」のはヨブではなく「あがなう方」のことです。「塵」とは「土の塵」のことです。人は塵から創られ、死ねば塵に返るものです(創世記3:19)。この箇所の「塵」は、ヨブの死を示すでしょう。ヨブが死んだとしても、別の「あがなう方」がいる、というのです。
 「あがなう」とは、もともと捕虜や奴隷を、代金を払って買い戻して救い出し、解放することでした。また殺害された人のために報復して無念をはらすことをも含みます。「立つ」とは、法廷で弁論する姿勢です。つまりヨブは、自分が死んだとしても、ヨブのために、その主張を代弁し、かばい、とりなし、無念をはらす方がいる、と述べているのです。
 この「あがなう方」とは、ほかならぬ神ご自身のことだと、多くの聖書学者は考えています。
 神は理不尽にもヨブに苦難をもたらしました。絶対者である神にとって、ヨブの存在など塵のようにはかなくむなしいものであることを、ヨブはよくわきまえています。しかし、それでもヨブは、神は自分の存在をむなしく終わらせはしない、神はわかってくださる、と信じているのです。
 人間からかけはなれた絶対者である神が、しかし塵にすぎない私をかえりみてくださるという信仰は、旧新約聖書全体を貫いて証されています。ヒエロニムスは、翻訳者としてしては間違いを犯したとしても、ここにキリストを読みとったその信仰は間違っていなかったと言えるでしょう。
 

2017年10月28日 (土)

10月22日 「神に挑む」

わたしのようなものがどうして神に答え、神に対して言うべき言葉を選び出せよう。
わたしの方が正しくても、答えることはできず、わたしを裁く方に憐れみを乞うだけだ。
しかし、わたしが呼びかけても返事はなさるまい。
わたしの声に耳を傾けてくださるとは思えない。
神は髪の毛一筋ほどのことでわたしを傷つけ、理由もなくわたしに傷を加えられる。
息つく暇も与えず、苦しみに苦しみを加えられる。
力に訴えても、見よ、神は強い。
正義に訴えても証人となってくれるものはいない。
わたしが正しいと主張しているのに、口をもって背いたことにされる。
無垢なのに、曲がった者とされる。
無垢かどうかすら、もうわたしは知らない。生きていたくない。
だからわたしは言う、同じことなのだ、と
神は無垢な者も逆らう者も同じように滅ぼし尽くされる、と。
罪もないのに、突然、鞭打たれ、殺される人の絶望を神は嘲笑う。
この地は神に逆らう者の手にゆだねられている。
神がその裁判官の顔を覆われたのだ。
ちがうというなら、誰がそうしたのか。
                       (ヨブ9章14~24節)

 ヨブの友人たちは「神は正しい。神は正しい人を守り、悪人を滅ぼす」と主張します。誰にも納得いくわかりやすい神の姿です。
 しかしヨブは、そんなことはない、と言いはります。「理由もなくわたしに傷を加えられる(17節)」「罪もないのに、突然、鞭打たれる(23節)」といった神のなさりようは、とうてい納得いくものではありません。それもそのはずで、神にとってヨブなどまったくとるに足りない存在です。ヨブは、「わたしのようなものがどうして神に答え、神に対して言うべき言葉を選び出せよう(14節)」「私がよびかけても返事はなさるまい(16節)」とつぶやきます。
 友人たちが示す神は、人間にとって納得できる神であり、言い換えれば人間の理解の範囲におさまる神です。しかしヨブは、神のなさりようは人間が理解し納得できる範囲を超えていることを知っています。ヨブのほうが、神を神とし、人間を超えた絶対の存在として認め畏れているといえます。
 それでもヨブは、絶対者である神に対して黙っていません。「恐れることなくわたしは宣言するだろう、わたしは正当に扱われていない、と(35節)」。神は絶対だとわかっていても、なお、神に向き合い、訴え、主張します。無謀にも、神に挑むのです。
 創世記32章に、神に挑んだ人のエピソードが記されています。帰郷を目前に苦悩するヤコブは、一晩、何者かと格闘しました。ヤコブは腿を痛めますが、相手は「お前は神と闘って勝った」と祝福します。本来なら絶対者である神に挑んで勝つなどありえないことです。しかし神は、ふしぎにも人が神に挑むことをおゆるしになり、たとえ傷を負わせたとしても、勝利と祝福をお与えになることがあるのです。とるに足りないわたしたちですが、納得のいかない神に挑むことがあります。そこに、ふしぎにも祝福が与えられることがあるのです。

2017年10月21日 (土)

10月15日 収穫感謝日 「神の日を見る」

なぜ、全能者のもとにはさまざまな時が蓄えられていないのか。
なぜ、神を愛する者が神の日を見ることができないのか。
人は地境を移し、家畜の群れを奪って自分のものとし
みなしごのろばを連れ去り、やもめの牛を質草に取る。
乏しい人々は道から押しのけられ、この地の貧しい人々は身を隠す。
彼らは野ろばのように荒れ野に出て労し、食べ物を求め、荒れ地で子に食べさせるパンを捜す。
自分のものでもない畑で刈り入れをさせられ、悪人のぶどう畑で残った房を集める。
着る物もなく裸で夜を過ごし寒さを防ぐための覆いもない。
山で激しい雨にぬれても身を避ける所もなく、岩にすがる。
父のない子は母の胸から引き離され、貧しい人の乳飲み子は人質に取られる。
彼らは身にまとう物もなく、裸で歩き、麦束を運びながらも自分は飢え
並び立つオリーブの間で油を搾り、搾り場でぶどうを踏みながらも渇く。
町では、死にゆく人々が呻き、刺し貫かれた人々があえいでいるが、神はその惨状に心を留めてくださらない。
             (ヨブ24章1~12節)

 災いにあったヨブに、友人たちは「神は正しい」と正論を述べます。神は正しい人を祝福し悪い者には報いて罰する。だからヨブはきっと何か罪を犯したに違いない、神の憐みにすがってゆるしてもらいなさい、と促しますのですが、ヨブは、心あたりはない、私は正しい、と言いはります。友人たちはあきれ怒ってヨブを傲慢だと非難し、ヨブもまた友人に憤ります。
 口論がエスカレートしていく中で、友人たちはくりかえし「神は正しい」と主張します。しかしヨブはそれに疑問をつきつけます。神はほんとうに正しい者を守り悪人を罰しているだろうか、現実はそうなっていないではないかと指摘するのです。
 24章では当時の社会のありさまが告発されています。強い者が力をふるい、弱い者を不当にしいたげています。私たちもまた、そうした現実をまのあたりにしています。
 理不尽な災い、苦悩、重荷があります。決して「神は正しい者を助ける。災いにあうのは悪人だ」などと簡単には言えません。それでもヨブは、「神も仏もない」という虚無に陥るのではなく、神に「なぜ」と問い続けます。「なぜ、あなたはこんなふうになさるのですか」「おかしいではありませんか」との問いは、神を信頼するからこその深く悲痛な問いかけです。
 ヨブ記は、読者もまた「なぜ、神の日を見ることができないのか(1節)」と神に向かって問うように促しています。さらに、ヨブ記を含む聖書全体は「神の日」、終わりのときの神の裁きの日への希望を示すものです。
マタイ福音書25章には、神の日には、すべての民が「小さな者」に対してどうふるまったかが問われると示されています。わたしたちは、神の日をどのように見ることになるでしょうか。

2017年10月14日 (土)

10月8日 「正解」

神は貧しい人を剣の刃から、権力者の手から救い出してくださる。
だからこそ、弱い人にも希望がある。不正はその口を閉ざすであろう。
見よ、幸いなのは神の懲らしめを受ける人。全能者の戒めを拒んではならない。彼は傷つけても、包み、打っても、その御手で癒してくださる。
六度苦難が襲っても、あなたを救い、七度襲っても災いがあなたに触れないようにしてくださる。
飢饉の時には死から、戦いの時には剣から助け出してくださる。
あなたは、陥れる舌からも守られている。
略奪する者が襲っても恐怖を抱くことはない。
略奪や飢饉を笑っていられる。
地の獣に恐怖を抱くこともない。
野の石とは契約を結び、野の獣とは和解する。
あなたは知るだろう、あなたの天幕は安全で牧場の群れを数えて欠けるもののないことを。
あなたは知るだろう、あなたの子孫は増え、一族は野の草のように茂ることを。
麦が実って収穫されるようにあなたは天寿を全うして墓に入ることだろう。
見よ、これが我らの究めたところ。
これこそ確かだ。よく聞いて、悟るがよい。
                         (ヨブ5章15~27節)

 災いにあって「死んだほうが幸いだ」と嘆くヨブを、友人エリファズは「しっかりしろ」と叱り(4:3~5)、「神は正しく、理由なく滅ぼすことはない。ヨブも、神から見れば決して正しいとはいえないはずだ(4:7、17)」とさとします。そして、「神は悪いことをした者を懲らしめることがあっても、それを癒し、救ってくださる。そうなれば君はもう大丈夫だ(5:17~18)」と教えます。つまり、「君は気付いていないうちに罪を犯したに違いない。神に願ってゆるしていただきなさい。きっと救ってくださるだろう」というのです。これは確かにエリファズの信仰から出た、「正しい答」には違いありません。それなのに、ヨブは激しく反発します。「それが悩んでいる友に言うことばか。いつ助けてくれなどと言ったか。いったい、何を言いたいんだ(6:14,22~25)」と、はねつけてしまうのです。
 私たちも、苦悩の友を何とか助けようとして、「正しい答」を示そうとします。しかし、正解が人を救うとは限らないのです。
 主イエスは、正解を教えようとはしませんでした。当時、すべてのことについて、律法に基づく正しい答が求められていましたが、主イエスは律法に基づいてではなく、ご自分のことばで、ご自分に基づいて語り、教えました。「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった(マルコ1:22)」ために、驚きたたえる人々もいた一方で、正しい答つまり律法をないがしろにするものとして憎まれ、ついには殺されてしまったのです。
 正解とは何でしょう。隣人に、全人格をもって向きあうことではないでしょうか。私たちには、全存在をもって向き合ってくださる主イエス・キリストがいらっしゃいます。その愛によって、わたしたちも勇気をもって隣人に全人格をもって向きあう愛へと促されているのです。

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