カテゴリー「説教要旨」の記事

2017年9月16日 (土)

9月10日 「キリストの現われ」

実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。十分な権威をもってこれらのことを語り、勧め、戒めなさい。だれにも侮られてはなりません。(テトス2章11~15節)

 
 有能で頼もしい伝道者テトスにあてた手紙の2章11~14節は、当時の教会で用いられていた儀式の式文か讃美歌の歌詞と考えられています。そこに記されただいじな教えを守るよう勧められています。
 11節と13節に「現れ」という語が繰り返されています。もとは「エピファネイア」という語で、キリストの「現われ」を祝う「エピファニー 公現日」の語源です。11節の「すべての人々の救いをもたらす神の恵みが現われました」とは、主イエス・キリストの生涯と、十字架と復活のできごとを通して現された神の救いのできごとを指しています。
 13節にも「キリストの栄光の現れを待ち望む」とあります。これは、いつかキリストが再びおいでになる再臨のことです。キリストの教会は、キリストがいつか再び現われてくださることを信じてきました。今の時代がどんなによこしまで苦しく悪い時代であったとしても、いつかそれは終わり、キリストの救いが完成するという、祝福に満ちた希望として「キリストの現われ」を待ち望んでいるのです。
 12節は、過去と未来の「キリストの現われ」の間のわたしたちの生き方を示しています。「思慮深く、正しく、信心深く」とありますが、それぞれ自分自身、隣人、そして神に対する姿勢を示したものだと解説している人がいます。14節も、こうした二つの「キリストの現われ」の間の生き方を、重ねて述べているようです。
 伝説では、テトスはクレタ島で教会のために働き、この地で長寿をまっとうしたといいます。テトス自身も、そしてわたしたちも、かつてのキリストの現われに支えられ、未来の現れを待ち望んで「思慮深く、正しく、信心深く」生きるよう促され、導かれているのです。

2017年9月 9日 (土)

9月3日召天者記念礼拝 「新しく生きる」

しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。 (テトス3章4~7節)

  『プロテスタンティズム』(深井智朗)という本を読みました。宗教改革の時代背景として、当時の人々がたえず死に直面し、「死んだ後どうなるか」が重大な関心事だった、と指摘しています。それに対しキリスト教は「永遠の命を受け継ぐ(7節)」と教えて人々の心をとらえ支えたというのです。さらにルターは聖書に基づき、永遠の命が与えられるのは人の業によらずただ神の慈しみと愛による、と断言したのでした(4~5節)。
 さて、しかし「永遠の命」とは、死んだ後だけのことでしょうか。
 5節には「この救いは・・・新たに生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現した」とあります。洗礼はキリストに結ばれて新たに歩みだすしるしです。それは、新しく生まれ、造り変えられることだというのです。永遠の命はここから始まっているのです。それは死んだ後だけのことではなく、生きること、生き方に関わることなのです。
 藤原亨牧師は、若い頃、絶望のなかでキリストに出会いました。ふりかえって「まさにわたしは死からよみがえって、新しい人生を歩み始めたのだ」と記しています。永遠の命とは、新しい人生を歩み始めることであり、救いの実現なのです。
 3章1~3節に、かつての生き方と新しい生き方が対比されています。簡単にいってしまえば、自分勝手な、人と隔てられた生き方から、共に生きるものへと変えられるということだと思います。
 きょう、信仰の先達とその生涯を思い起こします。それぞれ、キリストに結ばれ、新しく共に生きるものへと人生を変えられていきました。なにより教会で共に生きるものとされました。主はわたしたちもまたそのように変えることができるのです。主のみわざに信頼して歩みだしましょう。

2017年8月26日 (土)

8月20日 「おりが悪くても」

神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。 (テモテ二 4章1~5節)

  「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても(2節)」という句は、しばしば伝道を励ます言葉として用いられます。しかし、これは、もともとの文脈では、キリストの福音を知らない人たちにむけて語ることを促しているのではなく、教会内部の問題にかかわる戒めのことばです。教会が、本来の健全な教えをおろそかにし、真理から離れて作り話にそれていくことがあります(3~4節)。そのような「折が悪い」中でも、その教会に向かって御言葉を語りつづけることを促しているのです。
  使徒パウロは、福音とは異なる教えや考えが影響を及ぼしている諸教会にむけて、けんめいに真理の御言葉を語りつづけました。そのようなパウロが敬遠され、むしろ聞きたいことばを語ってくれる教師が喜ばれもてはやされることがありました。聞きたいことを語ってくれる教師が集められるのは、健全な教えがそこなわれるしるしと言えます。
  日本基督教団は、各教会がそれぞれ主体的に牧師を招く「招聘制」をとっています。各教会の主体性や責任を重んじたやりかたですが、「自分の都合のよいことを聞こうと、好き勝手に教師を集める」ことになる危険性があります。それを避けるためには、広い教会の交わりのなかで牧師を求め、また日常的に他教会との交わりを深めることが大切です。
  また、かつて日本の教会全体が、国家の圧迫のもと、「真理から耳をそむけ、作り話の方にそれていった」ことがあります。再びそのような「おりの悪い」時代がもたらされるのでしょうか。その中でも「福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい(5節)」と促されています。福音宣教の務めは、プロテスタント教会では、牧師だけでなく信徒それぞれに担うべき務めとされています。いま、心してこの促しを聞きましょう。

2017年8月11日 (金)

8月6日 平和聖日 「つながれていない」

この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。だから、わたしは、選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです。次の言葉は真実です。
「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、
キリストと共に生きるようになる。
耐え忍ぶなら、
キリストと共に支配するようになる。
キリストを否むなら、
キリストもわたしたちを否まれる。
わたしたちが誠実でなくても、
キリストは常に真実であられる。
キリストは御自身を
否むことができないからである。」
(テモテ二 2章8~13節)

 先日、いわゆる「共謀罪法案」が成立しました。行為がなくても、語りあった「ことば」をとがめて罪とする「共謀罪」は、かつての治安維持法と共通する危険性があります。三浦綾子さんの小説『銃口』は、治安維持法による弾圧事件「北海道つづり方教育事件」を題材としたものです。ことばを書き、あらわし、伝えることが罪とされた事件です。
 ことばをとりしまり、とがめ、罰することは、ことばによる思想・言論・表現・出版の自由を脅かすものです。とりわけ、ことばによって立つ私たちの信仰にとっては大きな脅威です。実際、治安維持法や関連法により、札幌新生教会の伊藤馨牧師の投獄、無教会の浅見仙作氏の逮捕、札幌北一条教会の小野村林蔵牧師の逮捕など、信仰のことばが問題とされた事件が札幌でもいくつも起きています。
 ことばがとがめられるとき、口を閉ざし沈黙するほかないのでしょうか。
 使徒パウロも、福音を語ったためにしばしば捕らえられ、鎖につながれました。「しかし、神の言葉はつながれていません(9節)」と記されています。どういう意味でしょうか。
 ひとつには、パウロをつないでも、彼が語ることをやめさせることはできなかった、ということでしょう(使徒26章)。また、彼が活動できなくても、他の人々が福音をかえって熱心に語ることにもなりました(フィリピ1:14以下)。神のことばの力は、人間の力でおしとどめたり、妨げたり、力をそいだりはできないのです。
 再びことばをつなごうとする企てが迫っているでしょうか。あるいはもうすでに私たちは見えない力にしばられつながれかけているのでしょうか。それでも、つながれていない、生ける神のことば、キリストを信じましょう。

2017年7月27日 (木)

7月23日 「聖書の力」

だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。 (テモテ二 3章14~17節)

 テモテの母は、ユダヤ人の慣習に従い、息子が幼い頃から聖書を教えていたようです。ただし、ここでいう「聖書」は、今日の「旧約聖書」のことです。 
旧約聖書にはもちろん、イエス・キリストは登場しません。しかし、「この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵をあなたに与えることができます」と述べられています。旧約聖書に、すでにキリストの救いへの道が備えられていると信じて読むよう促されているのです。
それは最初の弟子たちの体験でもありました。主イエスの十字架と復活という巨大なできごとに直面した弟子たちは、混乱と戸惑いと恐れの中で、必死にそのことを理解しようとしたことでしょう。そのとき、彼らも幼い日から親しんできた聖書(旧約聖書)の中に主イエス・キリストを指し示すことばを見出し、神のみこころを知り、キリストのできごとの意味を理解していったのです
さて、16節にも「聖書はすべて・・・」とありますが、これは「神の霊の導きの下に書かれた語句はすべて・・・」と訳すことができます。旧約聖書のほかにも、やがて使徒たちの手紙や福音書が、神の霊の導きの下に書かれたことばとして教会に認められ、「新約聖書」とされました。
この聖書が、「人を教え、戒め、正し、訓練する」とあります。聖書は、キリストを知らない人に信仰を教え、正し、導く力があります。しかし、もともとここで示されているのは、むしろ「神に仕える人(17節)」つまり信仰者のことです。
500年前、マルチン・ルターは「罪のゆるし」をめぐって聖書から与えられた信仰に立ち、当時の教会の権威やローマ教皇の支配を否定しました。プロテスタント教会の始まりです。聖書の力が、信仰者たちを、ルターを、教会を、教え、戒め、正し、義に導く訓練をもたらしました。聖書の力とはつまり、神の霊、神の力にほかなりません。私たちは、聖書の力によって立つのです。

2017年7月15日 (土)

7月9日 「世代をこえて」

わたしは、昼も夜も祈りの中で絶えずあなたを思い起こし、先祖に倣い清い良心をもって仕えている神に、感謝しています。わたしは、あなたの涙を忘れることができず、ぜひあなたに会って、喜びで満たされたいと願っています。そして、あなたが抱いている純真な信仰を思い起こしています。その信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っていると、わたしは確信しています。(テモテ二1章3~5節)

 5節には手紙の受取人テモテの信仰のルーツが記されています。使徒言行録16章1~3節によれば、テモテの父はギリシア人でした。異邦人と結婚した母は、それでもテモテに聖書を教え(3:15)、信仰を伝えました。テモテは、キリスト教会の第2世代の最初のひとりといえるでしょう。
 信仰を、世代をこえて伝えていくことは大きな課題です。日本の教会は、明治以来、熱心に伝道してきましたが、信徒の家庭で信仰がなかなか受け継がれてこなかった現実があります。しばしば親の側に「信仰を押しつけてはいけない」というためらいが生じます。教会もまた、「信仰は、自分で理解して選び取っていくもの」という発想があったのではないでしょうか。そうして、こどもたちを教会の外にしかおいてこなかったのではないでしょうか。
 こどもたちをどう受けとめるかは、教会のありかたにかかわります。教会が、何かの働きや能力、学識とか抽象的な議論を求めるところならば、こどもたちの居場所はあまりありません。しかし、教会を、共に生き、暮らし、育っていく共同体と考えると、こどもたちは欠くことができない存在です。
 私自身、信徒の家庭で生まれ育った第2世代です。生まれたときから教会で育てられてきたことは幸いでした。「自分で選んだのではない」と悩んだこともありましたが、けっきょくそれを受け入れて洗礼を受けました。
幼児洗礼を受けている人もいます。幼児洗礼は、ただ、こどもへの祝福や親の信仰の証を意味するのではなく、教会がその子を受け入れ、覚え、その生涯のために祈りつづけるということです。幼児洗礼にかかわらず、こどもたちのために祈りつづけましょう。
 また、テモテの信仰は、地域の諸教会の交わりのなかではぐくまれたものでした(使徒16:2)。若い世代にかかわる地区・教区の働きを覚えましょう。

2017年7月 8日 (土)

7月2日 「御言葉の報酬」

よく指導している長老たち、特に御言葉と教えのために労苦している長老たちは二倍の報酬を受けるにふさわしい、と考えるべきです。聖書には、「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」と、また「働く者が報酬を受けるのは当然である」と書かれています。(テモテ一5章17~18節)

 教会の働きを担うつとめとして「長老」をおいている教会は今日でも多くあります。そうした教会では、牧師もまた「御言葉と教えのために労苦している長老」と考える伝統があります。彼らは「二倍の報酬がふさわしい」とあります。「報酬」は「尊敬」「敬意」の意味をもつ語で、文語訳聖書では、「・・・長老をひときわ尊ぶべき者とせよ」と訳しています。しかしまた、これにはあきらかに物質的・経済的報酬の意味も含まれています。
  18節は、コリント一9章を踏まえています。ここでパウロは、律法の規定と主イエスのことばを根拠として、御言葉のために労する者の生活を教会が支えるべきことをいっしょうけんめい説いているのです。
しかし、現実に、牧師の生活を支えるのは教会にとって重い課題です。牧師は清貧であるべきだとされて苦しんだ牧師や家族も少なくありません。北海教区は、牧師の生活を支えきれなかった「北海道特別開拓伝道」の痛ましい歴史への反省から、謝儀基準を設け、それを支えあう互助の仕組みを築いてきました。
 牧師の報酬は具体的にどれくらいがふさわしいのか、定めるのは容易ではありませんが、少しだけ「献金と研究」というぜいたくができればと願います。経費と時間を費やして聖書や信仰について学び続け、また教会や他の活動を支える献金ができることは牧師の喜びです。
 北部教会は、15年前の招聘の約束を守り、無理をしてでも牧師を支え続けています。それは牧師個人への評価に基づくのではなく、御言葉そのものを「ひときわ尊ぶ」姿勢にほかなりません。その姿勢そのものが、牧師にとっては何よりの報酬です。感謝と共に、いま諸教会で労している牧師たちにも、ひときわの報酬が備えられるよう願うのです。

2017年7月 1日 (土)

6月25日 「食い荒らされた土地」 野外礼拝

大地よ、恐れるな、喜び躍れ。主は偉大な御業を成し遂げられた。
野の獣よ、恐れるな。荒れ野の草地は緑となり
木は実を結び
いちじくとぶどうは豊かな実りをもたらす。
シオンの子らよ。あなたたちの神なる主によって喜び躍れ。
主はあなたたちを救うために
秋の雨を与えて豊かに降らせてくださる。
元のように、秋の雨と春の雨をお与えになる。
麦打ち場は穀物に満ち
搾り場は新しい酒と油に溢れる。
わたしがお前たちに送った大軍
すなわち、かみ食らういなご
移住するいなご、若いいなご
食い荒らすいなごの
食い荒らした幾年もの損害をわたしは償う。
(ヨエル書2章21~25節)

 1880(明治13)年、十勝で大発生したバッタの群れは日高山脈を超え、一部は北上してこのあたりまで襲いました。音をたてて雲のように群れが押し寄せた後には、農作物だけでなく植物は何も残りませんでした。土には大量の卵が産み付けられ、バッタの害は数年間続きました。手稲山口の「バッタ塚」がその苦難を伝えています。
 聖書では、エジプトを襲ったイナゴの災い(出エジプト記10章)が有名ですが、預言書のひとつヨエル書にも、イナゴの害が語られています。 
 ヨエル書2章には、イナゴの大群が襲うさまがリアルに描かれています。イナゴに食い荒らされると飢饉となり、人々の命も脅かされます。しかしヨエルは、主がイナゴを追い払い、食い荒らされた大地に再び豊かな緑を回復してくださると語りました(2:21~25)。明治の頃、バッタに襲われたこのあたりも、もはや緑が回復し、人々が穏やかに暮らす地になりました。
 けれども、ヨエルが語りたかったのは、じつはイナゴのことではないのかもしれません。2章では、イナゴの群れを軍隊になぞらえて描いているのですが、ほんとうは、イナゴの害にたとえて侵略者の軍隊のことを語っているのかもしれません。
 人々が穏やかに暮らす地を、イナゴのように食い荒らす異国の軍隊が襲うことがあります。今も、世界の多くの地が軍隊に荒らされています。沖縄では、戦争の基地を作るために森や海が荒らされています。また、不当な利益をむさぼるために食い荒らされている地もあります。利益をあげるために原発が建てられた地は、いま荒れ果てています。
 イナゴが襲ったように食い荒らされた地を、主はそれでも回復してくださるという希望を聞きましょう。

2017年6月24日 (土)

6月18日 「もうひとつの家族」

老人を叱ってはなりません。むしろ、自分の父親と思って諭しなさい。若い男は兄弟と思い、年老いた婦人は母親と思い、若い女性には常に清らかな心で姉妹と思って諭しなさい。身寄りのないやもめを大事にしてあげなさい。(テモテ一 5章1~3節)

 若い牧会者テモテは、年長の信徒との関係に苦労することがあったのでしょうか。1節に「老人を𠮟ってはなりません」とあります。「𠮟る」とは、「非難する」「きつくあたる」という意味で、厳しく対決する姿勢を示します。「父親と思って諭しなさい」の「諭す」は、「パラカレオー」という語です。聖書では、聖霊が、かばい、促し、導くことを表現するのにも使われています。よりそい、支える姿勢をあらわすといえるでしょう。
 私たちの教会でも、高齢に伴うさまざまな課題が目立つようになってきています。年配者に関わるとき、注意したり、𠮟ったり、とがめたりして対決するのではなく、よりそう姿勢が促されています。
 この手紙にはまた、当時の教会が具体的に高齢の仲間たちを支えていたことが記されています。「やもめを大事にしてあげなさい(3節)」とありますが、「大事にする」とは、尊重し敬う姿勢とともに、具体的に世話をして支えることも含んでいます。当時の教会は、身寄りのない、弱い立場の「やもめ」たちの生活の実際を支えることに取り組んでいたのです。
 教会は「神の家族」といわれます。ともするとそれは、ただ精神的な意味に留まってしまいがちですが、最初の教会は、実際の家族のように経済生活をも支えようとしていました。その点では、今の私たちの先を行っているといえます。教会の交わりは、実際の家族にとってかわるものではありませんが、家族の支えがない人にとっての、もうひとつの家族として支えあおうとしていたのでした。
 教会は、神の家族であり、わたしたちのもうひとつの家族です。私たちによりそってくださる聖霊による交わりを深め、高齢の人、身寄りがない人、弱い立場に置かれた人々を、大事にし、よりそうことを目指しましょう。

2017年6月10日 (土)

6月4日ペンテコステ礼拝 「神の力に支えられて」

神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。(テモテ二 1章7~14節)

 主イエスが捕えられたときには逃げ去り、よみがえった主に出会っても疑い、主が天に上った後は自分たちだけで部屋に閉じこもっていた弟子たちが、ペンテコステの日を境に、大胆に、確信をもって、世界にむけて宣教の働きに向かいます。これは確かにふしぎなことです。それこそが聖霊、神の力がもたらしたことでした。「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださった(7節)」のです。それによって教会の歩みが始まっていきました。
 41年前、札幌北部伝道所が開設されたのも、この神の力によるふしぎでした。これからも、おくびょうにとりつかれることなく、力と愛と思慮分別の霊を信じ、神の力に支えられて前へ進む思いを新たにしましょう。
 ところで、今わたしたちは何に対しておくびょうになるというのでしょう。
 たしかに、教会は今、大きな問題に直面しています。高齢化や信徒数の減少、財政困難、伝道の不振などを前に、おくびょうになり、疑い深く、内に狭く閉じこもってしまいそうです。
 それだけでなく、時代の困難に迫られています。「共謀罪」「天皇代替わり」によって苦難がもたらされるでしょう。おくびょうに陥り、信仰が動揺し、閉鎖的になってしまうのでしょうか。
 「神の力に支えられて、・・・苦しみを忍んでください(8節)」と促されます。ペンテコステの後、教会は何もかも順調だったのではありません。苦難に直面し、失敗や挫折を重ね、それでも教会の歩みはやむことがありませんでした。それこそが神の力に支えられているしるしだったのです。
 わたしたちも「自分が信頼している方を知って(12節)」います。「わたしたちの内に住まわれる聖霊(14)」を信じ、勇気をもって歩みましょう。
 

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